第6話 わたしの先生
いつのまにかとっぷり日がくれた藍色の空の下を、少年 沖田宗次郎と一緒に歩く。
砂利を踏み締め、吐く息は白く、寒さがより一層増した頃、私たちは元いたところに…試衛館に辿り着いた。
「───あ」
あと数歩というところで、私は足を止めた。
道場の門の前で、灯りを提げた勝太が立っていた。
私たち2人の姿を見つけるなり、安堵したような面持ちになってこちらへ駆けてくる。
「心配したぞ、二人とも。
寒かったろう。さあ、中に入ろう」
真っ直ぐに見つめられ少したじろぐ。
こくりと頷き、歩き出した。
私の肩に添えられた大きな手は、暖かかった。
…優しい目だな。
そう思った。
人肌に安心して、私の目には涙が薄く滲んだ。
先ほどいた道場の中は、もう人がいなくなっていた。あんなに熱い空気に満ちていたのに、今は鳥肌が立つ程冷え込んでいる。
ゆっくり揺れる蝋燭の火と、窓から差し込む細い月明かりだけが道場内を薄暗く照らしている。
勝太は、数本蝋燭を足して道場を少し明るくした。
「名乗るのが遅れたな。
俺は、嶋崎勝太。
ここ試衛館で剣術を教えている者だ。
君の名は、何というんだい?」
道場の床にきちんと正座して、勝太はゆっくりと尋ねた。
かさかさに乾いた唇を、私は動かす。
「────ふじえだ、かぐら」
「藤の枝に、神楽、か。
綺麗な名前だなぁ」
彼は、じっくりと噛み締めるようにそう言った。
さて…と、彼が再び口を開いた。
「先ほど、周助先生と話をしたよ。ああ…周助先生はこの道場の道場主だ。
君の行く当てがないならと、快く承諾してくださった」
話、とは、きっと私の身のふりのことだろう。
勝太は、優しげな表情のまま続ける。
「ここにはな、正式に入門せずに好きな時に来て稽古をして、飯を食って、好きな時に帰る
食客がたくさんいるんだ。
君は女子だから、食客という扱いにするわけにはいかないだろう?
そこで、どうだろう。
ここの奉公人という形で、試衛館に住まないか?
君さえ良ければ、の話なんだが」
住む。ここに。
勝太の───嶋崎先生の武骨な微笑みを湛えた暖かい顔を見ていると、心の内側がじんわりと熱くなっていく感覚がした。
ふと、ふつふつと胸の中に湧き上がってくる感情があった。
「───誰にも殴られたり、ひどい言葉を浴びせられたりしないで、安心して眠れるの?」
思わず、そんな言葉を口にしてしまった。
嶋崎先生の目が、訝しげに細められた。それを見た私は、びっくりして縮こまってしまう。
「ごっ、ごめん、なさい…」
変なことを言ってしまった。
こんなこと、言いたくなかった。
私の素性を知られたら、もしかしたら、連れ戻されてしまうかもしれない。
あの恐ろしい場所へ。
あの場所が怖くて、あの人たちが怖くて、私の心はそれに支配されていた。
ふいに私の身体を、嶋崎先生が抱きしめた。
だいぶ強い力で抱きしめられたので、ちょっと苦しくて、口からけほっ、と息が溢れた。
「…まだ、こんなに幼い少女なのに」
呟かれた、たったそれだけの言葉。その言葉の端々はほんの少し震えていて、熱い感情がこもっていた。
あたたかい。
彼の身体があたたかい。
人は、こんなにもあたたかい。
誰かの身体に触れたことなんて、一度もなかった。こうして優しく抱きしめてもらったことも。
「もう大丈夫だ、大丈夫。
悪いヤツが来たら、俺がやっつけてやる。
必ずな。だから…
今日は安心して、ぐっすり眠れ」
鼓膜に、じわりと染み込む柔らかな声色。
こんなに優しいひとがいたなんて、私は、知らなかった。
なんて頼もしいひとなんだろう。
なんて暖かいひとなんだろう…
私の胸の内を支配していた何かが、薄くなっていくのを感じた。
急に全身から力が抜けた。今まで、物心ついた時からずっと張り詰めていた神経が、ふっと緩んでいく。
優しく頭を撫でられると、ぽろりと涙が落ちた。
張り詰めていたものがプツンと切れた私は、大声をあげて泣いた。
私の涙で嶋崎先生の肩を濡らしてしまったけれど、それでも、彼は何も言わずにただ抱きしめてくれた。
泣いて、泣いて、いつまでも泣いて。
感情をこんなに剥き出しにしたのは、人生で初めてだった。
やっと、私は感情を持った人になれた気がした。
1855年、安政2年の大晦日。
はらりと雪が舞い散る夜。
この日から、私は試衛館に奉公人として引き取られることになった。
─────
そして、私の新しい人生がこの日より、動き出す。
読んでいただきありがとうございました!




