第3話 少年剣士
江戸市中────。
市谷甲良屋敷にある天然理心流の剣術道場、試衛館は、小さな道場だった。
農民に剣を教えることの多いその流派は、
はたから芋道場と揶揄されることもしばしば。
率いるは、天然理心流3代目宗家の近藤周助、その養子の勝太。
何名かの門下生を抱え、道場は賑わいを見せていた。
太陽が空の真ん中へ登り、温かい陽光が地面を照らす。
麗らかな昼下がり。
パァン、パァン、と竹刀と竹刀がぶつかりあう音が響く。
汗と熱気が道場に充満していた。
「はぁっ…休憩休憩!」
一人の青年が竹刀を放り投げて大の字に寝転がる。その顔は湯上がりのようにのぼせ上がっていた。歳の頃は二十歳ほどか。
磨き込まれたような黒い瞳は若々しい挑戦的な光をたたえ、長い黒髪は無造作に高く束ねられている。
青年は、伸び切った前髪にうざったそうに息を吹きかけた。
すると、同い年くらいの、真白い稽古着を着た短髪の青年が手を差し出す。
「子どもの宗次郎に負けるなんて世話ないなぁ!トシ」
目を細めて舌打ちをし、差し出された手を無視して起き上がる。
「大体なぁ?宗は体力がバケモンなんだよ。
まだクソガキのクセして、剣術の腕と体力は並の大人の男じゃ比べモンになんねぇ」
「お褒めに預かり、光栄です」
宗 と呼ばれた少年は、年相応の可愛らしい笑顔でにこりと笑った。
歳の頃は12歳ほどで、高く結ばれた栗色の髪はふわふわと踊り、真白い頬は熱気で赤くなっている。
「宗次郎」
「はい、先生」
彼は純粋な面持ちのまま“先生”の方を向いた。
試衛館の、まだ年若い“先生”こと、島崎勝太。
時が来れば、天然理心流を正式に継ぐ男。
短く切った黒髪と、雄牛のような体格に見合わない愛嬌のある表情。
「腕を上げたなぁ!宗次郎はほんとに成長が早くてびっくりだよ」
屈託なく笑いながら、少年の頭にぽんと大きな手を置く。
「お前は間違いなく、剣術の天才だ」
憧れの師に褒められた少年は、照れたような、少し気恥ずかしそうな、そんな顔ではにかんだ。
そんな様子を見た、先ほど少年に負けた切長の目をした青年がさも面白くないと言ったような表情を浮かべ、竹刀を袋に納めた。
少年は、その大きな背中に声をかける。
「歳さん、いっしょに川に水を飲みに行きましょうよ」
「帰る。
宗と稽古してもつまんねぇ」
吐き捨てるように言うや否や、道場の扉をガラガラと開ける。けれど、彼はどんなに機嫌が悪くとも、道場から出る時にはきちんと礼をする。
そしてぴしゃりと扉を閉めた。
「あ〜あ。また怒らせちゃった」
少年はちょっと面白おかしそうに呟いた。
大人気ない男だな、トシも。と、勝太が呆れたように笑いながら付け足す。
「じゃあ先生、川に行ってきます」
「おう。じゃあ、戻ってきたら昼飯にしようか」
勝太は微笑み、もう一度少年の小さな頭をぐしゃぐしゃっと撫でた。
少年は崩れた頭のまま白い歯を見せて笑うと、「いってきまぁす!」と駆けて行った。
少年の名は、沖田宗次郎。
試衛館道場の、小さな天才剣士。
明日で年が明ける、真冬の日。
からりと晴れた、雲ひとつない晴天の青い空。
天高く、鳥が何羽も何羽も飛んでいく。
宗次郎は川辺に着くと、水を手に掬って飲んだ。冷たい川の水は乾き切った喉を潤し、火照った身体をひんやりと冷やしてくれる。
川は、さらさらと規則正しく流れる。一点の濁りも無く、川底が透けて見えるほど。
ふと、川の流れが少し不規則になった。
まるで、何か異物が混入しているかのように。
「ん…?」
手の中に掬った水を戻し、川の上流に目をやる。
宗次郎の目が、布に包まれた塊のようなものが流れてくるのを捉えた。
それはだんだん近づいてきて、その正体が徐々に明らかになっていく。
言い知れない疑念と好奇心を胸に、宗次郎は流れてくるものをじっと見つめる。
それは、ぼろを纏った少女の水死体だった。
「う、うわぁぁあっ!」
腰が抜けるほど驚いた。
でも、まだ死体と決まったわけではない。
そう思い、宗次郎は精一杯急いで引き上げた。
少女は青白い顔をして、苦しそうに眉を歪ませたまま意識を失っている。
宗次郎が少女の体を仰向けにした瞬間、一気に口から大量の水を吐き出した。
そして、ゆっくりと苦しげな表情が和らぎ、安らかな眠るような顔に変わっていく。
「う、嘘っ!」
死んでしまった。
咄嗟に宗次郎はそう思った。
まだ元服前の子どもの頭ではどうして良いか分からず、慌てて少女の小さな体を必死にゆする。
けれど、閉じられた瞼が開くことはない。
「…せ、先生っ!嶋崎先生ーーっ!!」
彼は叫びながらひたすらに、必死に道場へと走った。
大空を羽ばたく名もなき鳥が、高らかに鳴き声を上げる。
川は、また美しい規則正しい流れに戻り、何事もなかったかのようにどこまでもどこまでも流れゆく。
大晦日の、ひどく冷えた昼下がりのことだった。
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