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神楽舞  作者: Mimi
第1章 試衛館編
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第2話 吉原

1847年、弘化4年の春に、私はこの世に生を受けた。 



私は江戸の遊郭、吉原(よしわら)で生まれた。


私が生まれたところは遊郭と言っても、煌びやかな着物を纏った美しい遊女がいる見世ではない。


年老いて客がつかなくなった者や、貧しい者が集まる西河岸で、私は生まれ育った。



遊女にとって妊娠は恥。

子供なんか存在するだけで迷惑千万。

だけど、私の母親は私を生んだ。


でも、私が2歳の時に死んでしまったらしい。


覚えていないから、詳しいことは分からない。


けれど、周りは私にこう言い聞かせた。


“お前は、元いた見世の楼主を(たぶら)かし、女将と関係を拗らせてここに送られた、卑しい元花魁の子供”



どうやら私はそんな人間らしい。



何一つ煌びやかなものはない。こんな場所、江戸の闇だ。


遊郭の最下層のここで、私は何度も殺されかけながら今日まで生きている。

殴られ、蹴られ、冷たい水に頭から漬けられて。食べるものも満足に無くて、地面を這いずり回って他の人間の食べ残しを見つけては凌いだ。



恥も外聞も何もない。ただ生きるため。



────本当に迷惑よね。

花魁の子どもだか何だか知らないけど、早く死んでほしいわ。



口を開けば、そんなことばかり言われてきた。




1855年の年の暮れ。


お歯黒どぶの外から、年越しの準備を進める人々の賑わい声が微かに聞こえた。

長屋の中で霜焼けで真っ赤になった膝を抱えて(うずくま)る。


「はぁ…」


指先に息を吹きかけてみても、口からは冷たい息が出るだけで、ちっとも暖かくならない。


明日になれば年が明けて、ご飯の残りがたくさん出る。

お赤飯なんかもあるかもしれない。

久しぶりの温かいご飯に、ありつけるかもしれない。

わずかな期待で、お腹がぎゅっと絞られた。


足が冷たくなりすぎて、感覚がない。足同士を擦り合わせてみても、特に意味はなかった。


太陽が外をじりじりと照らしているのに、窓のないここの長屋は暗い。まるで、私を閉じ込めてるみたいに。



「おい、かぐら!」


長屋の扉が強く開かれる。


酷く激昂したような顔がそこにはあった。


この遊女は、私の親代わりで、2つから8つになる今まで私を育ててきた。


いや、育てられてしまった。


私は目の前のこの人間が嫌いだった。


憎くて憎くて、仕方がなかった。


こいつはいつも私を殴る。よっぽど私に消えて欲しいんだろう。


「何だい、まだ死んでないのかい」


いつもと同じ台詞を吐く。


チッ、と舌打ちをし、長屋に足を踏み入れるや否や、すぐに着物で口と鼻を隠す。ボロを纏ってフケだらけになった私に蔑むような目を向けて。


「こないだ、アンタお客の食べ物盗み食いしたんだってね」


「…」


盗んでいない。

落ちていた残飯を取って食べただけだ。



「おい!何とか言え、このクソガキ!!

お前のせいでっ…あたしまで悪く言われて!!」


「…あぁっ!」


髪を掴まれ引っ張られ、しまいには硬い下駄を履いた足で頭を蹴られる。

衝撃で、冷たい壁に体と頭を強打する。


「うっ…!っ…」


頭を手で触ると、ぬるっとした感覚と共に手に赤い物が付いた。


大丈夫。これで終われば良い方だ。


感情を殺して、ただ何も考えずに遊女を見つめる。


「っ…!」


思い切り振りかぶったと思えば、腕にものすごい激痛が走る。


「あああああっ!!!」


簪を腕に刺された。


つつっ、と血が腕を伝う。


────痛い…痛い。


「ハッ…ハッ…っ、ハッ…!」


呼吸が荒くなる。



こいつは、いつもこうだった。



「誰が…誰があの明鶴(おんな)の娘のお前を、ここまで育ててやったと思ってんだい…!?」


明鶴とは、私の母である花魁の名前。


薄い薄氷のような記憶の中にいる母は、私に世界で1番愛おしいものを見るような眼差しを向けている。


右目の下にある優しげな泣きぼくろだけ、とても脳裏に焼き付いていた。



「もう…いいわ…」


懐から凝った紋様の短刀を取り出す。


「殺してやる」


抜刀する音が、凄く耳に残った。


わずかに差し込む太陽の光を反射して、私に向けられた切先がぎらりと光った。


────殺される。


今まで何度も死にかけたことはあった。

でも、こんなにはっきりと覚悟したことはない。こんなに寒い冬なのに、背中にじっとりと冷えた汗が流れた。


怖い。

目の奥が不快に熱くなる。


死ぬ。


死ぬ


殺される




「はぁっ、はぁっ、はぁっ」


こんなに怖いのに、何もすることが出来ない。泣くこともできない。声を上げることもできない。お腹の中がヒクヒク動いて、肺からひっきりなしに短い息が漏れる。


短刀を振り上げる。ぜんぶの動きが、

ゆっくりになっていく。



短刀が、私を目掛けて振り下ろされていく。



「うあぁぁぁぁあああぁぁぁぁっ!」



私は狂ったように叫び、長屋を出た。



殺される。殺される。死ぬ。


お願い。


誰か…誰か、助けて。



必死に走る。凍りかけた土を踏み、小石に蹴躓きながらとにかく走った。


肺が勝手に喘いで苦しい。



「はっ、はっ、はっ、はっ!!」


吉原の街を、ただひたすらに駆けていく。


人垣を掻き分け、渇いた瞳を瞬くことも忘れて、ただただ一心不乱に走った。



大門が見えた。


この大門を抜けたら、どうなるか。


そういう遊女の話は、何度も聞いた。


ちょうど人が捌けていて、今この瞬間走り抜ければここを逃げられそうだ。


怖い。


でも、でも…


泣き叫びたい恐怖とは裏腹に、気がつけば私は吉原の大門を抜けていた。


後ろの方で、男の人が脱走した私を見て何かを叫んでる。


たすけて。


どうしよう。


どこに逃げたらいいの?


お願い、誰か…


誰でもいい。だから────…



気がつけば、川辺に来た。




じゃりじゃりと砂を踏む感覚が、嫌に伝わってくる。

川が、太陽を反射してきらきら光っている。


私は、ただでさえ何もない人間だったのに。


誰にも必要とされなくて、自分も自分のことが嫌いで。


これから先、生きていてもいいことなんて何もない。


今まで必死に生きながらえてきたことが、急にあほらしく思えて。


確かにな、と思い返す。


私は好きで生まれてきたわけじゃない。勝手に命を宿されて、勝手に暴力を振るわれて、勝手に全部全部奪われて。


私って、何のために生きてたんだっけ。


私が川に映ってる。


酷い顔だ。髪もぼさぼさで、ただのボロを纏って。


頭が思考することをやめたその時、私は川の中に飛び込んだ。


全身が冷たい。


心臓が止まりそうで、息をしたくても出来ない。肺に水が入って、あまりの苦しさにもがく。


でももうこれで、苦しまなくていいんだ。



そう思って、もがくことをやめた。


もがくのをやめてば、もう何にも苦しくない。



そうして私は、意識を失う。





よく、遊女は自分の定めを儚んで命を絶つとか言うけれど、命を絶つほど苦しんだというのにそれを儚んだというとは履き違えだと思う。


お母さんのことはよく覚えていない。でも、思っていた。

生きていてくれれば、こんな仕打ちは受けないで済んだのにって。

私を生んだお母さん。

もしかしたら、私のことを必要としてくれていたのかもしれない。大好きだよって、抱きしめてくれたかもしれない。


誰かのために、生きてみたかった。


心から笑ってみたかった。


誰かと一緒に、生きたかった。


ただ、それだけ。


閲覧ありがとうございます!

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