川の中に潜む魚
ぴく、と反応した原因は水面を突き破った衝撃だった。
穏やかな、それでも勢いのある流水は川上から川下に向かい一定の流れを築いているが、その自然運動の中に小さな異常がわんわんと響き渡り、平穏な心地を揺らす。
重い何かが落ちてきた――。私は気付く。
異変は、エサが飛び込んできた合図かもしれない。
崖から滑り落ちてきた小石でもなければ、ある程度の質量を持って水面の下に広がる世界へ潜り込んできた不届き者の正体は地上で暮らす生き物の可能性が高い。
僥倖か危険か、ともかく確かめずにはいられないわけだ。
常に死と隣り合わせの世界で生きる野生の身にはリスクなど当たり前に存在している。一瞬たりとも離れない、黒ローブを纏った骸骨の死神が鋭利な鎌先を喉元に突き立ててほくそ笑む。それが当たり前な日常である。
だから、エサを取りに行くために水面近くへ赴くことも、危険を承知して行う徘徊行為だ。
頭のいい鳥が、我ら魚の身を頂く為にエサを叩きつけたにしても、承知の上で向かわずにはいられない。
例え鋭いカギヅメや嘴が一秒にも満たない速さで俊敏に命を刈り取りに来たとしても。食べ物を得なければどのみち生きてはいけない身体には違いないのだ。天敵の知能が勝るか、あるいはカギヅメや嘴を搔い潜ってエサを頂戴出来るか、無傷で帰ってこれるのかは、考えてもしょうがない超高域の計算能力が必要になる。流水の勢い、光の加減、鳥のスピード、進入角度、どの程度エサが水面から離れていて、自分がどの角度からエサであるかを見定め、突っついて安全だと確信し、噛みついて体内に取り入れるか……。そんな複雑な計算式をいちいち立てていたらエサが無くなる。解答までの時間は無限に与えられているが、自分以外のその他が待っていてはくれない。危険を承知で飛び込んだものだけが栄光か破滅を手に入れる。そしてどこかでチャレンジしなければ、自動的に破滅が襲い掛かってくるのは本能的にもわかる単純明快な節理。死神は挑戦を避け続けるものに対しても容赦なく鎌先を突き立ててくる。奴らは挑戦に負けたものを笑い、そしてそれと同じように逃げ続ける臆病者にも悲劇の娯楽を求めるのだ。
「……」
今まで川上に向けていた頭をパッと振り、進行方向を変えた。
細身の身体に当たっては過ぎていく水流の圧を感じながら、音の出所に向けて進む。
何かが落ちた場所は、ここからそう遠くない。この川の流れは割と急で、今いる場所は特に水の流れが激しい。一見平たいように見えるものの川底は抉れるように深く、山の斜面を伝って勢いを増した水を立ち止まらせるような邪魔な岩も少ない。気の遠くなるような時間を掛けて形成された今のコースは、殆ど変わる余地がない。
透明な水中。雨が降らなければ濁りとも無縁な世界。
数えることすら億劫なほどの大小さまざまな小石が川底を形成している。袖振り合う縁のあった石同士とぶつかり、水に研がれて丸くなった形状を眼下に見据えながら泳ぐ。ここの小石たちには苔があまり生えていない。水の勢いが強くて苔の繁殖する機会を与えないのだ。しかしちょっとした影や岩の裏手には見つけられる。そこには、苔を目当てに集まる魚や虫などもいる。
自分の体の動きを調節しながら、するすると場所を変えて目的地近くへと移動する。
勢いのある水に順応した細長い身体をジリジリ進ませて、若干平行するように場所を変えた。
流れが激しいから、波紋の広がった場所より川下に移動すればちょうどよくご対面に預かれるだろう。
落ちたものが軽ければ水面近くに、重ければ川底に。
広く見なければならない。それに注意も散漫では、知らぬ間に通り過ぎて置いてけぼりを喰らう。
幸い、目は広く見渡せる。視力はあまりよくないが……。
流れてくる落ち葉。小さな虫。何か判然としないチリのような汚れ。
尾ひれと背びれ、胸ひれを使って川の流れと呼吸を合わせ、ホバリングするように滞留する。
もうそろそろ流れて来ても頃合いだ。
さて、どこから、どうやって流れてくるのか……。
「……」
偶然にも、私の他には、狙っている魚の姿が見えない。
いつもなら他に三、四匹はいて、私と同じ位置か、あるいは少しだけズレた場所で同じように留まっている。
この川で生まれた魚はこの川で暮らし続ける。川上、川下、位置はズレていても、別の川に移動することなどない。一生をこの川で暮らすのだ。自然、顔なじみは増えていく。
海に出ていくヤツもいるにはいる。が……そいつらとは根本的に違っている。
運命からして異なると言えば正確か。
私には一度海に出て戻ってくるなんて神がかり的なことは出来ない。
「……!」
エサがあった。
割と大きなミミズだ。川底を舐めるように浮き沈みを繰り返しては川下へ運ばれている。
なぜ、川の中央にこれほど大きなミミズが落ちてきたのだろう。
……そんな考えは、食料に余裕のある時考えればいい。
今目の前に巡ってきたエサを獲らない選択肢は、自分の腹が十分に満たされている場合にしか出てこない。わかっていることは、今の自分はそこそこ腹を空かせていて、このチャンスを逃せば次に獲物へかぶりつけるのはいつになるかわかってもおらず、まごまごしていればエサはどんどん川下へと流されていってしまう、ということだ。
自然の中で生きる。それには瞬間的な判断力が何よりも必要だ。
一秒にも満たない刹那の時間が我が身の生死を分ける。コンマの世界で行動した結果が、一秒先に生きていられるか、それとも誰かのエサになるかを分かつ。その時間予告は唐突にやってきて、タイムリミットはいつまでかなんて悠長に教えてもくれない。一秒か、十秒か、あるいはゼロ秒にも満たない世界での話なのか。そんな時に頭で計算などは出来ない。考えるということは立ち止まる余裕があって初めて与えられる贅沢な選択肢なのだ。上手く生きようという煩悩が身を強張らせる。だから常に自分の命を賭す覚悟でなければならないし、この自然界に生きる生命の殆どが生まれた時からそれを忠実に守り、実行している。骨の髄まで染み込んでいる。力があればあるだけ考える余裕に恵まれる――例えば、熊だ。力があり、ゆったりと過ごす余裕があるだろう。身体が大きいなら胃も大きいだろうし、脂肪を蓄えておける生態ですらある。ああいう手合いならじっくり考えて行動に移すことも可能だ。だが私は一介の魚の身である。脂肪が厚すぎれば身動きが鈍くなり、エサを獲れずに死ぬ。逆に貧相過ぎても川の激流に負けてしまうだろう。無駄、余分は、私の生き方については絶対に許してはならない甘えなのだ。
だから、このミミズがなぜ、この川の中央にドボンと落ちて来たのかを考えることはない。
川の真上まで伸びた木の枝があって、そこから落ちてきたのだろうくらいしか思わない。まぁ、完全に想像の域の話ではあるが……。
ミミズは、ちょん、ちょん、と川底の小石たちの上を軽くホップしながら泳いでいく。
まるで小石たちに胴上げされているようにも、ここはお前の居場所じゃないと冷たく突き放されているかのようでもある。まだ鮮度の高い身はウネウネ赤い胴体をくねらせて魅力的なダンスを披露している。パッパッと首を振ってもがく有様は、私にしてみればゴクリと生唾を飲み込ませるほどの惹き付けを感じさせる。獲物は生命力に富んでいればいるほどいい。死んで冷たくなってからのものはあまりにもマズくて食えたものではない。そういうとグルメだと思われるかもしれないが、まだ温かいうちに取り込みたいのだ。同じ消化をするなら栄養価の高いものである方が好ましいと考えるのは生きとし生けるものに共通する感覚ではないか?
少し離れた場所から、ジッと目を凝らして獲物の動きを観察する。
すぐには飛び付かない。どれだけ腹が減っていようとも、それが罠である可能性を出来る限り見定めなければならない。今すぐに食べたいという極限状態にありながら衝動的に飛びつかずにいられることは生きる上で大切なことだ。これは親に教えられたわけではない。自然と、生きていればそう考えるようになる。
私は数回、見定めている途中で果敢にもエサに飛びつき、そのまま水面上へと引っ張られていった仲間の姿を見たことがある。極上レベルの、それこそ稀に見る理想的な大きいエサに嬉々として食らいついた直後、凄まじい身動きで暴れ出し、しばらく格闘し続けた結果どこかへ引っ張られていくという凄惨な光景だった。まるで毒でも盛られたかというような必死ぶりは見ているこちらすらも怖気を感じてしまう迫力に満ちていて、私と数匹並んでいた他の魚どもも驚いて距離を取ってしまったほどだった。何もする手立てがなく遠巻きに見ている仲間の中には、あぁ、ヤツはハズレを引いたのだと諦観の眼差しで見つめている者もいた。最初の衝撃が駆け抜けてから冷静さを取り戻した魚たちの中にもそういうヤツがちらほら現れた。
そんな中の一匹が、自分の考えをポツリと零した。見ただけで涎が湧くような見事なエサであるほど危険だと。そういう形をしたエサの中には銀色に輝く毒物が仕込まれていて、ひと口咥えただけでも強烈な痛みをもって我ら魚の顎を傷つけるのだと。暴れたくなくても暴れてしまう。そして暴れたことで運よく解放されることもあるが、大体は暴れ疲れた頃に水面上へと引っ張られてしまう。まるで天国へ強制的に連れて行かれるように――。
薄情な悪魔が仕掛ける巧妙な罠は、一発で見抜けるほど下手くそな時もあるが、エサの中へ巧みに隠されて外からじゃわからない場合が多い。警戒心の無い、あるいは調子に乗って警戒を怠った不届き者がパクリと威勢よく咥えたが最後、毒を仕込んだエサは一気に反撃を仕掛けてくる。その時になってようやく、エサに紐づいた細い糸の存在に気付くのだ。光の反射でようやく姿を確認出来るほど姿を隠すことが得意な糸は半透明で気付きにくい。それがエサの美味しそうな踊りが冴えていれば尚更に注意が逸れて気付きにくい。そして何より、その糸は、私たちの鋭利な歯やエラの尖りへ運よく当たらなければ切れないほどの信じられない強度があるらしい。ただ体力任せにやみくもな逃走を図って川底へ逃げたとしても、直径数ミリにも満たない魔の手はどこまでもどこまでも執拗に伸びてエサを咥えた私たちを決して手放さず、美味しいものを咥えた代償として命を頂くまでは絡みついてくる。
日々生きる中で鍛えられた筋肉、その瞬発力を加減無しで動かしてなお引きちぎれない。こちらの有限である体力が尽きるまで粘られ、それこそ本当の幸運に恵まれない限りは、十中八九あの世へ連行されるのがオチだ。
しかもそういうエサは忘れた頃にやってくる。この川に悪魔が来るのは、本当に警戒心が抜けて気の抜けた頃なのだ。たまにしか来ないから余計にタチが悪い。日々を必死に生きている私などにとって、ニ、三日同じような場面に出くわさなければすぐ忘れてしまう。エサを獲る時に迷っている暇はない。そのことを思い出して、咄嗟に食いつくように身体が慣れてきた頃、まるで過去の亡霊が忘れることを許さないとでもいうように現れる。
あっ、と気づいた時にはもう遅い。本能に任せて身体を動かしているのだから、その本能が誤りであった場合には心中するしかない。本能を律するのは極めて難しい。もし方法があるとすれば、他の魚にエサを獲られる覚悟を毎回背負いながらチャンスを数秒遅らせて慎重になるか、エサに毒が仕込まれている場合の異変を察知する確かな観察眼を極めるくらいだろうか。
私の身体はまだ他の魚には負けない瞬発力を保っている。しかし、いつ衰えの兆しが顔を覗かせるかはわからない。その時までには老獪な技術力を築かねば、エサにありつけず死ぬだろう。惨めではあるが、仕方のないことだ。エサは誰かが与えてくれるものではない。それが老体の魚であればなおさらだ。稚魚であっても自らエサの獲れない者は置いて行かれるのだから、その残酷ともいえる非情な掟は一生涯変わらない。自らの手で食えない者は自然から去らねばならず、その時は何者かの養分になり、今まで食べていける側だったことの幸運を、あるいは報いを、この身をもって償うべきなのだ。自然は循環を繰り返している。その大きなサイクルの環からひとりだけ抜け出すことは出来ない。私もいつか何者かに捕食され、養分となり、自然へ還り、また何者かの中で生き続け、もし運が巡ってくれば主体として一個の生命を持ち、この自然の中を命ある限り駆け巡るだろう。そういう大局的な考え方は、私が年を取った証でもある。
今、目の前にエサがある。私はこれを食べるまでに今数秒を費やした。
なぜすぐにエサへ食らいつかないのかと聞く者はもはやいないだろう。いるとすれば私の考えと違う思考を持った他の誰かくらいだ。エサはちょんちょんと川底を跳ねるように踊り狂いながら川下へと流れていく。
これを喰らうかどうかの判断を、私は既に下した。
あまりにも「らしい」。魅力的過ぎる。このエサは食欲をそそり過ぎる。だから今回は逃すことにした。
「おい。食いに行かねぇのか」
そう言いたげな他の魚が、すぐ隣まで来て私の目を覗き込んできた。
「こんな極上なエサを前にしてちんたらやってるなんて、相当エサに食らいつく自信がないようだな、え?」
そんな言葉が、彼のきめ細かい艶色を纏った魚体から雄弁に発せられる。
一目見てわかる通り、まだ若かった。
「食わねぇなら俺が頂くぜ。もう腹が減ってしょうがねえんだ。お先!」
私は制止することもなくただ挑発を受けるに甘んじて、彼にエサを譲った。
パッと飛び出した彼が小躍りするミミズに近付き、機を見て食らいつく。
その途端、
「うおっ!?」
彼の身体は瞬く間に緊張し、力の限り暴れ始めた。
「くそッ! こいつ! 罠かよッ!」
どうやら今回のエサには毒が入っていたらしい。
私はどうすることも出来ず、彼の暴れ狂う情景を目に留めたまま、少しずつ後ろへと下がることにした。
「ちぃッ! このやろう!」
次第に遠ざかっていくけたたましい叫び声を発する魚体。その悲惨な光景を瞳に焼き付ける。
チャンスをわざと逃した結果は、自分の身をまだ僅かにでも生きながらえさせることに繋がった。甘い誘惑、優しい顔、垂涎が垂れる機会の顔をした悪魔の垂らす釣り糸が牙を剥いた何よりの証拠だった。
もし今回のエサが、もう少し貧相で、魅力的過ぎなければ、私も彼のように食らい付いていただろう。
天使の仮面を被った死神。そんな悪鬼が仕掛けた罠を見逃して、また新しい糧を求める。
この川は変わらないようでいつでも変化している。
変わらない臆病者には冷たいが、一度好機を見逃したくらいで見捨てるほど度量は狭くない。
だから次を探して揺蕩えば必ず出会えるはずだ。それが一見、見てくれ的には悪魔の用意した極上な見かけでは無かったとしても、いや極上な見かけではないからこそ、食らいつく価値がある。それが悪魔の気まぐれで貧相なエサを用いた罠であったとしても、今までの経験をもとに考えた末の結果であるなら後悔も少なくてすむだろう。何のために生きているかもわからないまま生きる私の生涯を突然幕引きするものであるかもしれないが、その侘しさ、寂しさにはある種身の丈に合ったと思える悲観が混じる。自分で自分の器量に目星を付けるのは若いうちには毒だが、それすらも量と場合を間違えなければ最良の薬となるはずなのだ。もっとも、魚である自分が病気に掛かれば治す手立てなど体の治癒能力に頼る以外ないのだけれど。
顔を前に向けたまま後退りして川下を下った。その結果、あの毒エサに食らいついた若い魚は小さく見えている。
まだ暴れているらしかったが、さっき近くで見ていた時よりも迫力は薄れている。遠のいたせいもあるだろうが、無尽蔵とも思える羨ましい限りのスタミナが減っているのは確実だった。この川は透明度がわりかし高い。若い魚が尾ひれで川底をすくうせいで土煙が立っているが、それでも闘う様子を眺めるのには困らない。口の中で暴れ出した死神の鎌から何とか逃げようと藻掻き、引っ張る力に抵抗して逆に向かい足掻くものの、油断した時にジリジリと、わずかな隙を付いて水面から降りた細糸はあの若い魚を引きずり上げていく。遥か遠く、私もまだ見たことのない水面上より、恐らくもっと向こう側から引っ張り上げる何かと、若い魚とが織り成すファイト、その強い衝突が真反対の緊張となって糸に緊張を漲らせ、張った糸がキラキラと光り輝き存在を主張する。遠く離れたここまでにも眩しさを届けて、今、食うものと食われるものの対決を、美しいほど残酷に浮かび上がらせている。憧れてはいないが、魅入る迫力がそこにはあった。ともすると、私の身体は知らず知らずのうちに再び川を上って彼らの場へと吸い寄せられてしまうかもしれないほどには鮮烈で、そこには確かに命の限りを尽くして生きる自然の熱く激しい一面がある。
自分より若い魚を応援する気持ちは、幾度にも同じ光景を見てしまったせいで擦れ切って殆ど無くなっている。
こうなってしまっては仕方がないと九割九分諦めてしまっている。だが、僅かに光る希望が、頑張れ、何とか振り切って戻ってこい、と肺から飛び出してしまいそうになる。それはすぐ泡になり、届かないことは誰より一番わかっているが、同胞……同じ魚……同じ環境で育ってきた、仲間というには遠い存在に、同情なのか、希望を見出したい気持ちなのかわからないが、確かに応援したくなる気持ちが浮かんでいる。だからこそ私は彼の姿がまったく見えなくなるまで遠ざかることを選ばなかったし、また目を背けて事態が終わるまで知らんぷりをする選択も取っていない。少しだけ離れた場所で、他のギャラリーがいない中、じっとその場に揺蕩って成り行きを見守り続ける。
助けたい気持ちが無いわけでは無い。しかし、私が行ってもどうしようもない。
熊のように手があれば幾らかは可能だろうが、いかんせん生まれついて横長の身一つだ。手どころか足すらも無い。
エラを擦り付けて糸を切るか、歯を突き立ててみるか。……それも難しいだろう。下手をすれば自分の身が危うい。保身を考えることに僅かな自責を感じるが、それでも、こうなった以上は見守るしかない。それがこの川の中でのルールだ。
一分……いや数十秒経っただろうか。段々、若い魚がヘバッてきた。
勢いよく反抗して潜り込む回数が減り、糸に引っ張られる時間が増えてきた。
しばらく水面へ手繰り寄せられては、ハッと思い出したように抵抗して川底へ向かう。だが、その距離も勢いも当初のものとは比べ物にならないほど落ちている。だからこそ余計に生と死を分かつ鏡面の境へ引きずり込まれてしまう。
たまに伺える若い魚の目が、疲れと諦めの魔の手に絡め取られて生気を吸い取られ、濁り始めていた。
言葉尻から伺えるように、平素であれば勝気な性格なのだろう。それ故に心に湧くファイトも熱いはずだ。
それでも、間断なくまとわりついてくる闇からの触手は、彼の気持ちを少しずつ、しかし確実にボロボロにしていった。粘着質なツタがぬるぬると這いずり回り、時間が経つほどに重みとなって動きを制限してくる。死を迎えるかどうかに立たされたとき生き物は全力で抗うが、その気概すらも風食して億劫にさせる怖さがある。自分というものが無くなってしまうかもしれないのに、体力を奪われてしまえば、それでもいいか、と自然と受け入れてしまう土壌を心の片隅に形成してしまう。濃密な諦めは若い心にも老境の諦観を生み出す。現に彼は、今では数秒に一回のペースで、思い出したように、あるいは壊れたおもちゃのように、発作的な抵抗を見せるだけになってしまった。
「……」
こんな状態を見続ける私を、きっと他人は冷たく笑うだろう。冷酷なヤツ。無慈悲なヤツ。楽しんでいるのかと。
違う。決してそういった意図で見続けているわけでは無いのだ。
私を見下した彼が不幸にも毒入りのエサを食べて苦しんでいることに愉悦を感じているわけでもなければ、もしかしたら巡ってくるかもしれない脱出の奇跡を見逃したくなくて佇んでいるわけでも決してない。そんな思いでこの場に佇むようなら、私は私のことをひどく醜く可哀そうなヤツだと思いたい。
彼の、今苦しんでいる姿は、きっと将来私も同じだろうと思うから眺めているのだ。
この惨劇から目を背けて忘れようとすれば、たちまち死神は数ある同胞に目もくれず私を次の標的にするだろう。
目を背けたくなる辛い情景に対して始終を見届けること。それが今の、そして今後の私に課せられた義務だとさえ思う。同じ川の中で生きてきた同胞の命が消えようとしている中、見捨てることで彼に決定的な絶望を与えることも、もしくはもういないものとして忘れ去ろうとすることもせず、けれども近づいて何とか彼を助けようなどと天使のような自己犠牲の振る舞いもせず、明日は我が身だという教訓と共に、彼の、猛烈に光り輝いて死神と闘う熱い血潮に敬意を払って、この川に住まう魚たちを代表して見守り続ける。ダメかもしれないが、運良く逃げ切れるかもしれない。どちらにしても、今闘っている彼の姿を脳裏に刻み込むことただそれだけが、居合わせた私に出来る最大の彼への寄り添いであり、ある意味で弔いであり、そして希望でもあると信じたいのだ。
これが自己満足である可能性は十分にある。もし魚のコミュニティに、身を挺してでも同胞を助けようとする立派な自己犠牲の友愛が育っていれば確実に冷血漢の烙印は免れえないだろう。それがなくても、私の心というものは不思議と自分に対して鋭い刃を突き立てて、お前は冷たいヤツだ。なぜ助けない。助けられなくても助けに向かえば良いだろう、と非難してくる。針というよりは銛のような太さでチクチクと痛みを掻き立ててくる内部。不思議でならない、だがそんな思いは、恐らく自己憐憫、自分自身の可愛さが生み出す幻の呵責なのだろう。自分を痛めつけることで、この悲惨な情景から目を背けない、そして動かない辛さを幾分かでも和らげようとする狡猾な思考が私自身を救いたいと願って生み出す真逆の反応なのだろうと解釈する。そう解釈するからこそ、私はこの痛みに促されて偽善的な態度を取ることを許さない。自己批判による刃の痛みすら受け止めたうえで、私は彼を見守り続けるのだ。
もし私が彼の立場になった時、ただ遠くからジッと見ている者がいたら、薄情だとは思うが、それでよいとどこかで思うのだと思う。いや、そう信じたい。この考えを持っていない者ならば、必ず私を薄情だと思うだろうが……。
「……」
絶対的な致死のラインに限りなく迫っている。勇猛だった彼の抵抗も今では見る影も無く、なりを潜めてしまった。粘着質な魔の手によって積み重ねられた見えない重さに体力も気力も奪われてしまったのだろう。もう抵抗らしい抵抗はなく、あったとしても悪あがきに近い無駄な抵抗があるだけだった。彼の目の輝きは、遠くからでもハッキリわかるほどに濁っていた。もう私を見て非難する余裕もないだろう。雨が降り、土砂が流れ込んだせいでまったく視界を奪われてしまった川の濁りのように不透明な瞳は輝きを失って焦点すらぼやけている。諦観、悟り、疲れ、それでも生きていたいと根底に流れ続ける叶わない本音とのコンフリクションが激しく入り混じり合った末に見せる色合いは、様々な感情を灯した個性あふれる原色をパレットの中でぐちゃぐちゃに掻き混ぜてみせた色。あれだけの美しさを誇っていた純粋な色味が入り乱れることで魅力を失くし、かえって何とも形容し難いくすみに落ち着いてしまう。もう、洗い流さなければ使える色ではない。よしんば使える道が残っていたとしても、それだけで美しい景色に色を灯すことは出来ないだろう。またまっさらなパレットにそれぞれハッキリと分割された純粋な色をいくつもチューブから絞り出して備えておき、必要に応じて、空に、土に、花に、草に、濃淡や陰影に気を付けながら繊細に、的確に塗りつけるのでなければ、心から時を忘れてうっとりする出来の絵にはならないだろう。彼が疲れを癒して内側をまっさらにする余裕さえあれば望みはあるが、それも恐らくは叶わない。老衰による寿命、それも人生に満足しながら天に逝くのでなければ、あるいは本人の自覚なく一瞬で天国に連れて行かれるのでなければ――命を失う者は強く感情を乱されながら生命の火を風化させていくのだろうか。それはあまりにも悲しい、しかし逆に生命の力強さを感じさせる悲しみがある。
彼の身体が、川底に向かうのではなく水面に向いた。糸に引っ張られる形で真逆の方向に向けられた。
透明な水の中、キラキラ輝く水面に彼が引き寄せられ、もうあとわずかしか猶予がない。
頭を上に、尾ひれを下にして、斜めに天を目指していく姿。鱗には強く光の反射が宿り、それは消えゆく今わの際になって殊更強く輝きを増していく。
光に包まれていく彼を神が祝福しているのだろうか。あるいは、ようやく従順になった彼を見て深く微笑んだ死神が、可愛さあまりに死に化粧を施して悦に至るが故の眩しさなのだろうか。
どちらにせよ、もうすぐこの世のものでは無くなることがわかってしまう。まるで木漏れ日の光のように、降り注ぐ陽射しを細かく振り分けたような天井から身を乗り出せば一巻の終わり。尾ひれが効果を発揮する水中で無ければ魚など取るに足らない存在だ。駆け足の速度で勝るものが、蹴り出す地面を取り上げられた途端に長所を失うように、虚しく魚体を暴れさせても、出来るのは体に纏わりついた水滴を弾かせることだけだろう。
どこから来ているのかわからないが、糸が水面を突き破って伸びている以上、空中のその先、どこかへ連れされられるのは明白だ。だからあの水面は我々の命を保証する最後の一線なのだ。ごくまれに水面より先へ連れ出されてからドボンと落ちて戻ってくる同胞がいないわけではない。だが、それは本当に運が良い場合でしかない。まだ生きていてもいいと、気まぐれを起こした天使が死神の手元を狂わせてくれることを祈るしかない。そう考えると、本当に天使は気まぐれだ。常に微笑んで、誰にでも優しくしてくれるものと思いきや、意外と自分の興味好奇心で動く存在なのかも知れない。私にはある意味で、自分に正直な死神より恐ろしいとさえ感じる時がある。
「……」
彼の身体が、間もなく水面を潜り抜ける。
私の目の高さより上に昇ってしまった、ちょうど陽光が差し込む眩しい水面をバックにして。
疲れ果てた身体は十秒もしないうちに視界から消えてしまうだろう。尻尾をこちらに向けたままの姿勢だからもう彼の瞳の色を伺うことは出来ないが、それでも私は彼の疲れ切った魚体に、こちらへ向ける背中に、強い尊敬と惜別の寂寥感を覚えた。
立派だった。幾分か勇み足ではあったけれど、彼は彼なりの勇猛果敢さで自然と対峙し、そして最後まで闘った。
もし私と同じように眺め続ける変わり者がいたら、いやもしかしたら嘲笑したり冷笑したりする反応をするかもしれないが、その心の奥底では彼の行いを認める部分が必ず生まれるに違いない。バカだ、アイツは調子に乗り過ぎた、急ぎ過ぎたんだと呟く、その取り繕った表層の、誰にも見せない深い奥底では、それでも立派だったと、言葉にしなくても戦い抜いた気高い映像が刻み込まれたに違いない。この厳しい自然界に生きる者として、いつかは私もそうなるという実感があるものならば確実に覚えずにはいられない血生臭い、そして熱く激しく輝く光景は、命を捨てざるを得なかった彼に、いやこんな言い方は適切ではない。命の限りに死神と闘った彼の健闘を称えるに違いないのだ。たとえ彼がどんなにイヤなヤツだったとしても、なりふり構わず全身でブチ当たった必死さを茶化す理由となるには幼稚過ぎる。我々も天から与えられた命はひとつしかないからこそ、たったひとつ自らに与えられた命を惜しみなく限りなく使い果たすまでに摩耗させ切った生き物としての敬意に溢れる。だから忘れられない。忘れたくもないし、今こうして彼の姿が見えなくなるまで見送りたいと思う。ここに、キミが闘ったことを心に留める者がいる。そのささやかな贈り物を、決して同情や憐憫から来るものではない、自分に出来るだけの誠実さを持って純度を高めた限りない美しさに磨き上げた花束を、手渡すことは叶わないまでも胸に抱えて捧げる者がいたことを。覚えておくことは無いが、そういうことを行う者がここにいたことを、どこか心の隅に置いておいて欲しいと願う。
ちゃぷ、と音がして、彼の姿は消えて行った。
釣り上げられる直前、意外にも音が立たなかったのは、彼が何の抵抗もせずに空中へ引き上げられたせいだろう。
闘いの無くなった水の中は異常な静けさに包まれた。ほんの数秒前まで繰り広げられていた激闘の余韻は、未だに待っている土埃くらいしか認められない。それも水の流れに押されてどんどん清められていき、いつもの通りに透明な川底が広がるだけに至る。この場所へ毒入りのエサが投入された事実など知る由もない魚が来れば、あの強気な彼が奮闘していたことなど思いもかけずに鼻歌交じりの遊泳で通り過ぎてしまうだろう。ここは誰それが釣り上げられたいわくつきのポイントだ、用心しなければならないなどと後世に伝わることもない。ここに落ちてきたエサは縁起が悪いから口にするべからずなどといったおとぎ話風の注意喚起なども語り継がれることなどないだろう。彼が生きていた事実が一瞬にして失われてしまった。仲の良かったものは思い出すかもしれないが、それでも我ら魚が同胞を思い出すことはまれだ。厳しい環境の中で生きるということは、そういった油断をもたらす思考を嫌う。数秒間だけ思い出したように「あいつはどうしたかな。最近顔を見ないな」と意識して、その数秒後には「まぁどこかで会えるだろう」と気楽に流して終わるだけだ。この川の中を訪ね泳いでどうしても会いたいなんて行動を起こす魚がいるなど私には考えられない。いたとしても相当の変わり者だ。同じ母親のお腹から生まれてきた兄弟であっても、すぐに競争相手となって他人としか考えられない私たちには、血縁などという甘い言葉でお腹が膨れることはないと実感を持って骨の髄まで理解しているからだ。私だって、同時期に生まれた兄弟なんて生まれてからこのかた一度も気に掛けたことはない。もし川中で巡り合う同胞がいて、その魚が実は同じ母親から生まれていたことがわかっても、多分感動をするほど心に留めることなどない。
そんなシビアな世界が、この川底には広がっている。もう彼が生きていたことを証明するものなど、私の記憶以外には存在しないのだ。文字も掛けず、言葉も残せず、土に還るまでの落ちぶれた姿をどこかしこに残すわけでもない。死神に連れて行かれるということはそういうことなのだ。
私は数秒間だけその場に立ちすくみゆらゆらと揺れる水面の輝きを見つめた後、尾ひれを動かして方向を変えた。
パッと視界が切り替わる。それを彼との別れとした。感傷に浸り続けていれば、私も油断を付かれてしまう。
悲しさはある。寂寥感、何か心の欠片を奪われてしまったような寂しさがある。
一日だって共にしていない同胞を失ってしまったことにここまで悲しむ必要はどこにもない。それはわかっている。今までに同じような光景は何度も見てきた。しかし、だからといって慣れることはない。こんな気持ちをわかってくれる魚など滅多にいないだろうことも想像がついている。私はどうやら同胞の中でも変わり者で、考えることが好きなようだから。
まったく変わらないようでいて、しかし確実に変わっている水の中。
今、川上から茶色くなった落ち葉が流れてきた。私の傍を通り抜けて、そのまま川下へと消えて行く。
底に敷き詰めた小石に当たり、次第に砕けていく脆さを見ながら、私は、胸に抱えた寂しい気持ちを落ち葉の行く末に重ね合わせて、誰とも共有できない感情が慰められるように心のどこかで祈っていた。




