2章「vs後輩」_9話
チリチリと小煩い音が聞こえてくる。起床を告げる時計の音だ。
アンジュは眠たさのあまり唸り声を上げる。冷気で震えるのが冬の朝だが、今日はやけに暖かい。心地よさを感じながらゆっくりと目を開けた。いつもはしばらく眠気と格闘するが、今日は一瞬にして霧散する。
なぜならアルフレードが腕の中で眠っていたからだ。
(え?え?え?なんで?)
夜中の出来事を知らないアンジュは混乱した。ひっしに記憶を探り、夢現に温かい何かを抱きしめたことを思い出す。
アンジュは頭を抱えた。実家にいると勘違いし、アルフレードをポエテランジェの子どもだと思い込んだのだ。
(つまり私は一晩中抱き締めて眠っていた…?)
あまりの衝撃に呆けていると、チリチリ鳴る音に意識が戻される。時計のことを思い出したアンジュは慌ててそのスイッチを切った。
部屋は一転して静寂に包まれる。カーテンの隙間から日差しが入り、穏やかな1日を迎えられそうな気配を漂わせている。すでにアルフレードが隣で寝ていたのに驚いたアンジュには関係のない話ではあるが。
アンジュは膝を抱え、アルフレードを見つめる。
想い人は気持ちよさそうに眠っている。大人びた顔つきも、今は随分と幼く見える。とても可愛らしい。寝顔を見たのも初めてだ。お泊まりとはかくも様々なイベントが発生するのだとアンジュは噛み締めた。
(婚約者特権として、今は独占したいと思うのは虫が良すぎるかな)
昨晩の出来事を思い出し、重たい感情が胸を燻る。何はともあれ起床時間だ。アルフレードをこのまま寝かせてあげたい欲はあるが、仕事である。惜しい気持ちに蓋をして、アンジュはアルフレードを起こすことにした。
「おはようアルフレード。朝だよ。起きて」
繰り返し名前を呼べば、ゆっくりと瞼が上がり、水色の瞳がアンジュを映す。パチパチと繰り返すと、ハッと大きく目が開かれる。
「おはようアルフレード。待ってて。服を持ってくるから」
「アンジュ」
服を取りにベッドから降りようとしたアンジュを、アルフレードは引き止めた。
寝起きとは思えないほど、しっかりとした声。婚約者にかつてないほど真剣に名を呼ばれ、アンジュは背筋を伸ばす。
「夜の続き、話してもいいか」
「…うん」
居住まいを正し、アンジュはアルフレードに向き合う。日差しが入る気持ち良い室内に、緊張感が漂う。
「’’本当に好きな人’’がって話。仮の話だが、いつか、アンジュではない人と結婚するとして、だ。今は君がいるんだ。普通なら"新しく好きになった人"って表現にならないか?」
アルフレードは単刀直入に話を切り出した。まずはアンジュの認識をきちんと確かめておきたかったからだ。
「新しく?新しくって、今好きな人がいるって………………………ん?」
アンジュが眉間に皺を寄せた。その反応にアルフレードは決意を固める。
「やっぱり、俺のせいでずっと誤解させていたんだな」
「…誤解?なんのこと?」
全く理解できないと首を傾げるアンジュに、彼は頭を下げた。
「顔合わせの時、理由を聞いてくれたのに言葉が選びが悪かった。本当に申し訳なく思う。今度こそきちんと伝えたい」
そして顔を上げると、彼はアンジュの手を引き寄せ薬指に唇を当てた。
「アンジュ・ブルナー。俺は1人の女性として、君のことを愛している」
「………………………………………ぇ?」
アンジュは石のように固まった。
「軍学校の時から、アンジュのことが好きだ。卒業してからも諦められなくて。家族に、友人たちに…君のご家族の力も借りて、ようやく婚約を結ぶことができたんだ」
「君だけを伴侶にしたい、君のそばにいたい。俺の本当に好きな人は、アンジュだけだ」
「愛してる」
次々と贈られる告白を受け止めきれず、アンジュは口を開いたまま動けずにいた。理解が追いつかない。
「アンジュは、俺のことをどう思ってる?嫌い、か?今まで、無理矢理付き合ってくれていた?」
嫌い、無理矢理、の単語に我に帰ったアンジュは全力で首を横に振る。
「なら、よかった」
アンジュが必死に否定する様に、アルフレードは胸を撫で下ろした。
アルフレードの緊張が緩んだ一方で、アンジュの焦りは最高潮を迎えていた。
(伝えないと、私も伝えないと)
アルフレードが本心を伝えてくれたのだ。話すのが苦手な彼が、頭を下げて、想いをきちんと伝えてくれた。アンジュも秘めていた気持ちを伝えようと、口を動かそうとする。しかし、死ぬまで秘めると決意した気持ちを、すぐに表そうなんて無理な話である。伝える言葉を持たないのだ。当然言葉はうまくまとまらず、呻き声すら出てこない。
「今まで誤解させてきた分、すぐには信じてもらえないとは思ってる。俺の人生をかけて君を愛していると証明する」
混乱するアンジュの頬を、アルフレードは優しく包み込んだ。
(これはゆめ?)
好きな人の顔がゆっくり近づいてきた。水が透き通ったような綺麗な瞳が閉ざされる。すこしざらついた唇が、アンジュの唇に触れた。伝わってくる熱に、夢ではなく現実だと理解した彼女の思考は完全に停止した。
(…やわらかいな)
アンジュの、想い人の厚みのある唇。思っていた以上に柔らかい。望んでいた、ずっと。ようやく触れることができた。ずっと堪能していたいが…現実は厳しい。これから出勤しないといけない2人にとって、時間の猶予は短くなっていく。
名残惜しさにアルフレードは一度、啄むように動かすと唇を離した。
微かに、熱を持った息がかかり、アンジュは身を震わせた。
「だならどうか俺だけを…俺との未来を、考えませんか?」




