石山合戦ー⑲:三木城の日干し――石山炎上
血と涙に彩られた播磨
その結果、尼子勢は孤立。勝久はついに自刃した。尼子再興を夢見て戦い続けた山中鹿之助は幾度敗れても主家復興を諦めなかった。上月城の戦いで孤立し、勝久が自刃した後も、なお奮戦を続けた。
だが、捕らえられた鹿之助は備中・合の橋にて護送の途上、ついに殺された。水中に沈められたとも、斬首されたとも伝わるが、いずれにせよ悲壮な最期であった。彼もまた、だし殿と同じく「己が信じる忠義」を手放さず、命を賭して主家に殉じたのである。
女は夫に、男は主家に――忠義のかたちこそ違えど、その結末は同じ死であった。私はふと、これが戦国という時代の本質なのかと思う。忠義とは、救いではなく縛りであったのではないか、と。この時代に生きた者の宿命か、人はその縛りの中にこそ己の誇りを見いだす。だし殿も、鹿之助も、滅びゆく我が身を承知で己の道を選んだ。
ただ、だし殿が家族や家臣を見捨てて逃げた村重などのために、命を捧げることをも厭わなかった理由は私にはさっぱり分からぬ。武家の妻の在り方と言われようが、あんな男に忠義は立てられぬ。私なら生き延びて村重の首を刎ねてから、あの世に逝くものを、と思えてならぬ。まあ、夫婦のことなど他人には分からぬから、あの夫婦にはあの夫婦なりの在り方があったのやもしれぬ。
一方、秀吉は三木城を徹底して囲み、兵糧攻めに出た。これが後に語り草となる「三木の干殺し」である。籠城戦は2年に及び、兵糧の道を絶ち、城を包囲し、外からの一切の救援を断ったゆえ、城内は地獄と化した。飢えに苦しむ者が続出し、草木は食われ尽くされ、鼠や蛇にまで手を伸ばし、それも尽きれば人が人の死骸を食う事態に至ったと伝わる。母が子を殺め、その肉を口にしたという話を聞いたとき、私は身の毛もよだつ思いであった。極限の飢えは、人を鬼に変えるのであろう。
城下の民もまた地獄であった。戦場となった村々は戦火に焼かれ、田畑を失い、農民は家を追われ、町人は財を失い、皆が命からがら逃げ惑った。戦の渦に巻き込まれるは常に弱き民。いつの世も変わらない。
やがて、長治は観念した。自らの命と、弟・友之、叔父・賀相の命を犠牲にし、他の者の助命を嘆願したのである。秀吉はこれを受け入れ、酒を贈ったという。長治は家族や家臣と盃を交わし、皆そろって自害した。潔くも悲しい結末であった。これが信長なら、敵に酒など与えず、皆殺しにしたかも知れぬ。そこに秀吉の計算高い温情が見える。
こうして天正8年5月5日、三木は陥ち、尼子再興の夢は潰えた。血と涙にまみれた末に、勝利の果実を掴んだのは、結局は秀吉ただ一人であった。いやはや、あやつの抜け目のなさよ。だがその背後に、どれほどの血と涙が流れたか。それを忘れてはなるまい。
かくして、秀吉はようやく長浜へ戻ることが許された。戦功の褒美として、信長は「四十石」と呼ばれる名高き茶壺を授けた。茶器ひとつに国替えにも匹敵するほどの価値を帯びるのだから、この世はつくづく無情なものよ。
その頃、石山本願寺に残った教如は、なおも抗していた。だが和平の気配が漂い始めると、反信長勢力の主軸であった毛利が守勢に転じ、本願寺への援助に消極的となった。補給の道も途絶えると、勝ち目はほとんど見えぬ状況となる。
籠城を続ければ数万の門徒が飢えて死ぬ、三木城の二の舞になるのは目に見えていた。やがて教如はついに膝を屈し、父・顕如に従い、信長に赦免を乞う書状を差し出した。
信長は「明け渡せば追撃はせぬ」と応じ、天正8年8月2日、ついに石山は開城された。長きにわたる争いはようやく終息を迎えた。だが、その日のうちに堂宇は炎に包まれた。松明の火が飛び移ったとも、悔しさに耐えかねた教如の一派が放火したとも伝わるが、真は定かではない。
三日三晩燃え続け、荘厳を誇った伽藍は灰燼と化した。のちにその地に秀吉の大坂城が築かれるのは、皮肉な歴史の巡り合わせであるとしか言いようもない。
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