石山合戦ー⑯:有岡城幽閉 ――官兵衛の試練
裏切りと忠義の狭間
秀吉の臣下であるのが惜しい、とさえ思った。できることならば、信長の直臣であってほしかった。もしそうであれば、あの後に待つ悲劇も違った形になったのではないか。そう思う私が、今もここにいる。
案の定、官兵衛は後に秀吉の軍師として名を馳せ、数多の戦を采配し、勝利を呼び込んでいった。だがその才が、信長のために働くことはなかったのだ。黒田官兵衛が秀吉に姫路城を差し出したとき、城下は大いに揺れたらしい。
「黒田殿が織田方に従ったぞ」
「城の主が替われば、我らの暮らしはどうなる」
人々の声は不安に満ちていた。戦乱の世、主の交代は税が重くなるか、土地を奪われるか、命が危うくなるか。そうした恐れを意味したからだ。だが、秀吉はただちに民を集め、こう告げた。
「黒田殿の志を継ぎ、これよりは儂がこの姫路を治める。民を苦しめることはせぬ。むしろ、皆の力あっての城下じゃ」
その言葉に加えて、秀吉は実際に負担を軽くする政策を布いた。農民からの年貢を減らし、町人には商売の自由を与える。さらに、兵を使って城下の道を整えさせ、井戸を掘らせた。人々は「あの小男は、ただの戦働きではない」と噂した。こうして姫路城下は次第に秀吉を受け入れていった。
私から見れば、あれは計算づくの人心掌握。だが、民にとっては救いのように映ったのだろう。そういう意味では、秀吉は確かに人たらしであった。
時を同じくして、播磨の向こう摂津では、大事が起きていた。それがあの荒木村重の謀反である。あの男もまた、松永久秀と同じく、己が利を天秤にかけては裏切りを繰り返した将であった。
信長の命を受け、村重を説得に赴いたのが黒田官兵衛である。官兵衛は真っ直ぐな男ゆえ、「まだ戻れる」と信じて城に入ったのだ。だが村重は、返答の代わりに官兵衛を捕らえ、有岡城の土牢に幽閉してしまった。
一年近くも日の光の差さぬ牢に閉じ込められ、病に蝕まれ、足は不自由となったという。才気煥発の軍師も、死地にあってはただの人。普通なら命尽きていたであろう。だが官兵衛は生き延びた。「必ず信長公の御為に戻る」との執念だけで、闇に耐え抜いたのである。
しかしながら信長は烈火の如きお人。官兵衛が戻らぬと知るや、すぐさま「裏切ったか」と断じられた。村重に取り込まれたと思うたのだ。信長はすぐさま官兵衛を討てと光秀に命じた。あのままなら黒田家は一族もろとも潰されておったろう。だが、ここで立ちはだかったのが秀吉じゃ。あの男、恩を売る術には長けておる。
「官兵衛殿は必ず戻る、裏切るような御仁ではございませぬ」
そう繰り返し信長をなだめすかし、さらに官兵衛の妻・光や竹中半兵衛らの嘆願も合わせ、ついに黒田家を救ってみせた。信長は一時、官兵衛の嫡子・松寿丸(のちの長政)を処刑せよと命じたとも伝わるが、秀吉のとりなしによってこちらも助命される。
これもまた秀吉の恐ろしさよ。人を救うと見せて、その心まで縛るのだ。秀吉は官兵衛という男を見抜いていた。恩義に厚く、軍略も優れている。だから裏切ることはない。帰って来ないのは、官兵衛の意思であるはずがない、ならばここであの男に恩を売れば、一生の忠義を尽くすことは間違いない。
官兵衛を手中に確実に取り込む千載一遇の機会、などと考えたのではなかろうか。まさに「人たらし」の極みである。
この話の裏で、光秀もまた難しい立場に置かれていた。村重が謀反を起こしたことで畿内の治安は大いに乱れ、明智勢にも火の粉が降りかかった。表向きは信長の意向に従いながらも、村重の動きにかつての盟友の姿を重ね、複雑な思いを抱いていたかもしれぬ。
思えばこれもまた光秀の胸には何か澱のようなものが溜まったひとつであったかも知れぬ。そしてこの時、光秀もまた、官兵衛の命乞いをしたと言う話だ。信長の命に従って官兵衛を討っておれば、光秀自身の運命もまた変わっておったかもしれぬという、何とも皮肉な運命じゃ。官兵衛の策謀なくして、後の秀吉の栄華は訪れることもなかったのであるから。
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