石山合戦ー⑨:越後の龍――軍神・上杉謙信
信長を見透かした男
それでも石山本願寺は平然と旗を掲げ続けた。信長がいかほどの兵を率いて攻め寄せようとも、揺らぐ気配は見せぬ。大名の支持だけでなく、町人や百姓までも巻き込んでの一大宗教勢力。思想で結ばれた集団は、金や兵糧の尽きる戦とは異なる強さを持っていた。信仰とはある種の集団催眠ではないかと思うこともある。
もっとも、顕如その人が最初から戦を望んでいたわけではない。叡山の焼き討ちという悪夢を経て、顕如にとって信長は「神も仏も信じぬ怪物」と映っていた。もし降れば、長島一向一揆のように兵士・僧侶・領民を問わず、女子供に至るまで皆殺しにされる。その恐怖が、彼を徹底抗戦へと追いやったのだろう。恐怖や怯えは時に力となる。厄介なことに、信長は相手に恐怖心を抱かせる天才であった。
実際、私ですら黙って睨まれると、その眼光に射すくめられるような気がするときがある。死を恐れる者、野望を抱く者ほど、その目に縫いつけられて動けなくなってしまう。あの家康ですら、信長の前ではいつも冷や汗を流しておった。
家康──幼き竹千代は、6歳のころ今川家に人質として送られる途上で、信長の父・信秀に奪われ、一時期織田家に身を寄せた。ちょうど私が信長に嫁いだ頃のことである。わずかな期間ではあったが、竹千代の小さな背を見た記憶が、今も脳裏に残っている。怯えながらも必死に耐えていたあの子が、後に三河を束ね、やがて天下を狙うとは……。
正直なところ、後にあれほど名を遺す武将になろうとは、その頃の私には思いも寄らなんだ。影は薄く、どこかオドオドした子供に過ぎぬと思うていた。人の運命とは、つくづく分からぬものよ。
村重が謀反を起こす1年前、天正5年(1577年)。越後の龍と謳われた上杉謙信は、織田と一戦を交えるべく、静かに牙を研いでおった。信玄を失うた謙信にとり、次なる仇敵は信長しかなかった。信玄は年長であり、父のようでありながら、唯一胸を張って戦える相手でもあった。その死は、謙信から戦の矜持を奪うたとも言える。
されど、信長という新たな標的を得て、謙信はむしろ若返ったかのように戦意を漲らせていった。信玄は謙信より九歳年上であり、この年齢差は大きかった。それに対し、信長は謙信の4歳年下で、歳が近い分、天下を競い合うにふさわしい相手と見ていたのであろう。
それは信長も同じであった。信玄と渡り合った上杉謙信は、怖くもあり、しかし同時に好敵手として心躍る存在でもあった。早く一戦を交えたい、そんな思いが互いの胸中にあったのかもしれない。
この頃、越後から能登へと続く北陸道は、すでに謙信の軍勢によって血に染められていた。能登の畠山家は内紛に苦しみ、七尾城は落城寸前。謙信は着実に駒を進め、まるで大河が流れ下るように勢力を広げていた。もちろん信長も手をこまねいていたわけではない。
柴田勝家に加え、前田利家や佐々成政、不破光治ら北陸方面の将を総動員して救援を命じた。だが、その采配はすでに信長らしくなかった。自ら前に出ず、兵を遠くから操るばかりであったのだから。
私の耳にも、七尾攻めの戦況は度々届いておった。利家が必死に兵を励まし、勝家が槍を振るって突撃を指揮するさまが伝わってきたが、結局は後手に回っていた。戦場では、謙信の陣営から鼓と法螺の音が鳴り響き、川霧に包まれた大地に響き渡ったという。能登の民は、謙信の旗印を見て、次々に従った。まるで武神そのものが降り立ったかのようであったと。
謙信は戦場にて殺気を読むことに長けていた。あるとき直江兼継に向かって、こう洩らしたと伝わる。
「織田の軍に、信長はおらぬ。あの陣からは気配が伝わらぬ。所詮、信玄公とは違う」
信玄の陣には、常に烈々たる気迫が漂うていた。将自らが泥にまみれ、兵と同じ釜の飯を食うていた。その差を、謙信は見逃さなかったのだ。
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