石山合戦ー⑥:卑怯な謀反人ー荒木村重
業火に焼かれる謀反人の一族郎党
しかし天正6年(1578年)、仙千代は荒木村重の謀反に巻き込まれ、命を落とした。そのときから蘭丸が仙千代の役目を引き継ぐことになったのである。
荒木村重は石山本願寺攻めの先陣を務め、毛利方との対峙を担っていたが、戦況は思わしくなかった。もともと独立心の強い男だったし、毛利の誘い文句もあったのだろう。ある夜、村重が密かに毛利の使者と会っていたという噂を耳にしたことがある。私がそれを信長に告げると、信長は薄く笑って言った。
「裏切る者は、いつか必ず尻尾を出す」
その半年後、本当に尻尾を出した。村重は有岡城に籠もって信長に反旗を翻し、結果として自滅の道を歩むことになったのだ。
一説には、村重の輩下であった茨木城主・中川清秀の進言によるとも伝わる。石山本願寺を包囲していた最中、清秀の家臣の中に、敵方へ密かに米を売って私腹を肥やす者がいる、との報せが安土の信長の耳に届いた。
村重にとっては寝耳に水。だが、軍律の世界では、家臣の不始末はその主君の責め。まして信長のように疑い深い男に対しては、いかに弁明しても、疑いを完全に拭うことは難しい。村重は己の面目を保つため、母を人質として差し出し、誠意を示す覚悟を固めかけていた。
ところが、清秀やその配下の将らが、それを止めた。
「信長公は一度疑った者を、二度と元のようには扱わぬお方。人質を差し出せば、荒木一族は飼い殺しにされるだけじゃ」
その言葉は、村重の胸の奥の不安を直撃した。確かに、戦のさなか、敵に兵糧を売るような不祥事を出した将を、信長が重用し続けるはずもない。一度もたげた疑念は膨らみ、やがて…裏切りへと傾いていった。
私から見れば、この一件はどうにも胡散臭い。清秀は、もし村重が信長に母を差し出して誠意を見せた場合、信長が許してしまうかもしれない。そうなると今度はその矛先が自らの直臣が犯した清秀に向くのは必至、それを避けるために村重に謀反の道を選ばせたのではないか。そう考えるのは、私の穿ちすぎかであろうか。
ともあれ、村重は反旗を翻し、本願寺側に与した。理由の一つは戦況の不利もあったはずだ。信長の旗色が圧倒的に勝っていたら、いくら独立心の強い村重でも、あえて破滅の道に踏み込むことはなかったろう。だが毛利の影、本願寺の籠城、各地の一揆蜂起……形勢はまだ流動的に見えたのだ。
信長は即座に討伐を命じ、有岡城を包囲した。黒田官兵衛が説得に赴いたが、逆に捕らえられ、土牢に幽閉される(後に秀吉により救出)。村重は知略に富み、家臣も一族も武勇の士が多く、簡単には落城せず、籠城戦は一年近く続いた。
しかし時は兵糧を削る。城内では米一粒を巡って争うほどになり、兵も町人も衰弱していった。信長は村重の妻子や家臣の家族を人質に取り、城外へ引き出して投降を促す。だが、村重は姿を現さなかった。
それどころか、彼は城を抜け出し、毛利の庇護を求めて1人、落ち延びたのだ。今まで共に戦い、尽くしてくれた皆を捨てて自分だけ逃げるとは、呆れ果てた武士である。怒り狂った信長が残された家族・一族・家臣をどうするかは目に見えていたであろうに。
10月13日、尼崎近くで村重の家臣の妻女120余人を磔、召使の女中380人と若衆120余人を家屋に押し込み火をかけた。さらに16日には人質を車に載せ、京中を引き回して六条河原で斬首。城の外で焼け焦げた匂いと血の匂いが入り混じり、風に乗って遠くまで漂ったと聞く。私はその場にいなかったが、想像するだけで胸が悪くなる。
人質を晒せば、村重が出てくると信長は踏んだのだろうが、彼は二度と姿を現さなかった。まあ、出てきたところで許されるはずがないことくらい、村重も分かっていたはず。だが、共に果てる覚悟さえ持てなかったのか。自らの判断で戦に巻き込んだ家族や家臣を、最後まで見捨てたのだ。
お読みいただきありがとうございます。
いいね・評価・ブックマーク&感想コメントなど頂けましたら大変励みになります。
今後ともよろしくお願いします。




