石山合戦ー⑤:またしても現れる――足利義昭
足利という名門の厄介さ
天正4年(1576年)の春、信長は明智光秀、細川藤孝、荒木村重、筒井順慶らに討伐を命じ、自らも安土を発った。ところが相手も手練れで、攻撃を仕掛けた原田直政が討ち取られ、四天王寺を奪われたかと思えば、その堂塔まで焼かれた。
私は後に、焼け跡から拾われたという焼き瓦を見たことがある。掌の上でまだ黒く煤けていて、その匂いは何年経っても消えぬものだった。
激昂した信長は四天王寺の一揆勢を粉砕し、石山城へ迫ったが、城は大砲や鉄砲を備え、さらに夜襲や待ち伏せといったゲリラ戦法で織田軍を翻弄した。攻めても攻めても城は崩れず、倒れるのは味方ばかり。陣中から届く負傷兵の呻きは、夜更けまで絶えなんだ。
信長の顔にも焦りが滲んでいた。あの人が膳の端に箸を置き、無言で地図を睨む背中を私は今でも覚えておる。あれはただの武将の背ではなく、天下を背負った男の背だった。
私も、ここまで相手が根強いとは思わなかった。顕如は表では信仰の旗を掲げながら、裏では毛利にじわじわと擦り寄っていた。そしてとうとう、中国一帯を治める毛利一族が本願寺へ援助の手を差し伸べたのである。
その上、ここでまたもやあの足利義昭が顔を出す。まったく、何度目か。こんなことなら、とっくにあの首、刎ねておけばよかった。信長が温情をかけたわけではない。ただ、取るに足らぬ小物と見て放置しただけだ。だが、足利の名は、やはり重いらしい。
このとき義昭は毛利に身を寄せており、その義昭に繋ぎを取ったのが顕如だった。そして義昭は毛利輝元、さらにその叔父である小早川隆景、吉川元春を説得し、本願寺側につかせた。
毛利元就の死後、家中は慎重策をとることが多かったが、このときは反信長の大義を掲げ、石山本願寺を支援。毛利水軍は瀬戸内を制し、海路から籠城軍へ食糧や火薬を次々と送り込んだ。義昭と顕如はさらに武田勝頼、上杉謙信、北条氏政らにも使者を放ち、反信長の網を全国に広げた。これには義昭の「信長を必ず屈服させる」という執念が効いていたのだろう。やはり遺恨を持つ者は、生かしておくべきではない。
翌天正5年(1577年)2月には、紀伊の畠山貞政が雑賀門徒と根来衆と手を結び、本願寺に呼応して挙兵した。雑賀衆といえば、紀伊に拠点を置く浄土真宗の信徒で構成された武装集団、鉄砲の扱いで名を馳せた傭兵集団である。彼らの撃つ一斉射撃は、熟練の武将ですら怯むほどだった。紀伊の入り組んだ地形と潮流を知り尽くしており、補給線を狙うその動きは、いわば水と陸を自在に駆ける獣のようだった。
「あやつら、次から次へと小賢しい真似を……いつまで盾突くつもりだ」
信長は表では怒声を上げていたが、その眼の奥には焦りが見えた。勢力が肥大化する前に、叩き潰さねばならないとわかっていたのだ。
そういえば、この年、信長のもとに一人の美しい小姓が仕えるようになった。まだ十三の少年、森蘭丸。父は森可成、天文23年(1554年)に信長の客将として迎えられ、若き日の信長を支えた名将だ。槍の名手として知られたが、永禄13年(1570年)、宇佐山城の戦い(叡山・延暦寺の戦い)で討たれている。蘭丸は六人兄弟の三男坊で、このとき弟の坊丸(四男)、力丸(五男)も共に小姓として召し抱えられた。
初めて蘭丸を見たとき、私は思わず「信長が好きそうな顔だ」と心で呟いた。目元の涼しさ、白い肌、背筋の通り方、すべてが絵のようだった。されど当時はまだ万見仙千代という先輩小姓がいて、信長は仙千代に目をかけていた。仙千代は戦にも度々出て、槍働きで名を挙げた男である。
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