石山合戦ー①:更なる高みへ――続く戦い
妻と家臣ー光秀の思惑
十一.石山合戦
天正3年(1575年)10月13日――。北国の一向一揆を平らげた信長は、まだ血の匂いを鎧に残したまま岐阜へ戻り、その勢いのまま京へ上ることと相成った。
このときの信長は、まこと得意満面にて、勝鬨の余韻を全身に纏っておった。刃のような気迫は一時おさまりしものの、けして消えたわけではない。獲物を喰らい満ち足りた獣が、ただ静かに爪を研ぎつつ息を潜めておる。私の目にはそのように映った。
信長という御方は、時として人が違うかと疑うほど面持ちを変える。狂気の火が一度走れば留まらず、敵も味方も等しく焼き尽くすが、機嫌よく話していると時として、私が嫁ぎし折に見せていた童の笑顔そのままをのぞかせることもある。そしてそのどちらも紛れもなく、偽りなき信長の本来の姿なのであると、私は思っておる。片方だけ切り離して穏やかなるときばかりでは信長ではない、と。
京へ向かう道すがら、柏原にて三条家、水無瀬家をはじめとする公家衆が迎え出でた。さらに摂家や清華の家筋、近隣の大名・土豪までもが、都の入り口に列をなし、まるで新帝を迎えるかの体であった。沿道の人々は背伸びして覗き、手を合わせる者、息を詰める者とさまざまであったが、大層な歓迎ぶりであった。
10月28日、信長は私の父・道三や祖父ともゆかりのある京都・妙覚寺にて茶の湯の会を催された。千利休を世話役に据え、名だたる茶人17名を招き入れられたが、信長は湯気の向こうで、戦場とは別の刃、人を沈黙で斬るような眼をして座っておった。皆縮こまるような目をしていたが、利休だけは泰然自若としてお江うのを見るにこの男も食えない男であると感じた。飄々としておるがただの茶人とは思えぬ様がある。
11月4日、信長は朝廷より大納言兼右近衛大将に叙せられ、御所にて拝賀の式を受けた。これは源頼朝の右大将、足利尊氏の大納言を兼ねた先例に倣うもの。朝廷が信長を武の覇者として都の要に据えようとする意志である、即ちそれだけ信長を高く評価しておったということじゃ。10日後、岐阜へ戻った信長は上機嫌にて、公家言葉を真似ては笑っていた。
その折、岐阜城の天守に上られ、濃尾の平野を見渡すや否や、
「惟任日向を呼べ、すぐじゃ。早馬を出せ」
と声を張られた。惟任日向守――光秀のことである。私が「光秀殿に何かご用で?」と問えば、
「うむ、奴の意見を聞こうと思うてな」
「早馬など差し向けては何かあったのかと慌てましょうに」
「その顔が見てみたい」
信長は決して戯れておるわけではない。思い立てば即座に動き、それを家臣にも求めるのだ。いかにその思いにこたえられるか重要なのである。
案の定、近江の坂本より光秀は十数騎を従え、翌日には馬に泡を吹かせて駆け付けた。何事かと血相を変えた様は、いささか滑稽ですらある。信長の命なら、事の大小にかかわらず駆けねば、待つは断罪のみ。
私もよく逆らったものなれど、不思議なことに、信長は私の反抗だけは愉しんでおったようだ。そうでなければ私などとっくに首を刎ねられていたであろう。
「のう、胡蝶」
「はい」
「そちは、わしに忠誠を誓うておるか?」
「忠誠とな?なぜ私が?妻は夫に忠誠を誓わねばなりませぬか?」
「妻は夫に従うものじゃろう」
「殿はそのような従順な妻がお好みで?」
「いや……それでは面白うない」
「でしょうとも。妻は家臣ではございませぬゆえ」
「そちは変わらぬのう、嫁いできた時から反抗的な女よ」
「側室の御方々は皆従順でございましょう。皆さま、私と違って可愛いお方ばかりと存じます。なのに正室まで同じでは退屈にございましょう」
「確かにな。胡蝶、わしはな、人の忠誠など露ほども信じておらぬ。立場や情勢でいくらでも変わる。昨日の家臣は明日は敵の御大将となるかもしれぬしな」
「さようですね。なれど、それこそが面白きところでございましょう。明日何が起こるか分からぬ世なんて、心躍るところではありませんか」
私がそう申すと、殿は口元に愉快そうに嗤った。
「まこと面白きは世の中より我妻であるわ」
そんな会話を私と信長よく楽しんでおった。
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