長篠の戦いー③:無茶ぶり――羽柴筑前守秀吉
秀吉と勝頼―生き様の違い
信長の狂気に誰もが震えあがっていたというのに、これでもかと己の強さを誇示することに固執しておった。それでも私は、この信長の狂気がどこへ向かい、どこに辿り着くのか、それを見届けようと心に決めていた。狂い、堕ち、阿修羅と化す信長とともに生きていくしかない、それが我が運命であると。
この頃には、信長も藤吉郎を「猿」とは呼ばなくなっていた。彼は羽柴筑前守秀吉と、名をを改め、信長も「筑前」と、呼ぶようになっていた。
そして、翌年の天正3年(1575年)4月。
「兵を1万、鉄砲千、必ず連れて参れ。筑前、それが叶わぬならば、貴様はそれまでの男ということだ」
信長が秀吉にそう告げたのは、ある朝の岐阜城でのことであった。
武田四郎勝頼が、三河へと侵攻してきたのである。三方ヶ原で父・信玄に敗北した家康では、この勝頼を止めることは叶わぬと、信長は見ていた。秀吉は信長の命に一瞬、表情を強張らせた。だが、すぐにいつもの軽薄さを装って、にこりと笑って頭を下げた。
「ははっ、仰せの通りにございまする。10日もあれば、用意いたしましょう」
はっきり言って無茶ぶりである。この時の秀吉にはまたそれほどの力はなかった。秀吉の与力には、蜂須賀正勝、加藤清正(当時まだ若年)、前野長康などがおったが、彼自身の軍勢は信長直属軍の一部として扱われているだけのもの。しかも鉄砲は非常に高価で、農民から徴収する兵にまで銃を持たせるのは至難の業であった。
信長が何故、このような無茶を秀吉に命じたのか。ここにも信長の人の差異を見抜く目があったのかも知れぬ。しかし、私はその時、秀吉の掌がじっと汗をかいていたのを見逃さなかった。あとで、城下の裏路地で秀吉に出くわした時に思わず尋ねてみた。
「どうやって、あれを揃えるつもりなのだ?無理なら無理と早いうちに申した方が身のためと申すもの」
「お方様、お戯れを。こういう時こそ、日頃の蓄えが生きるのでございます」
そう言いながらも、秀吉の目には焦燥の色が浮かんでいた。金子、米、銃、兵、そのどれもが今の秀吉では簡単には揃わぬであろう。
「銭がなければ、知恵と顔で借りる。それが、わしのやり方でございます」
そう言って秀吉は頭を下げて通り過ぎた。まこと、ふてぶてしい男よ。なれどああいう男こそ、この戦乱の世を生き抜く男なのかもしれぬ、とも思った。
秀吉は即座に動いた。尾張・美濃の代官に命じて農村から兵を徴発し、普段から懐柔していた町の銃工や鍛冶職人たちに持ってる金をばら撒いて銃の整備を急がせたようだ。秀吉は自身も寝る間も惜しまず兵と装備をかき集めた。
ある夜、彼の陣所をそっと覗いた私は、布にくるまれた古びた火縄銃を一本ずつ手入れしている秀吉の姿を見た。
「千、とは言わぬ。七百でも八百でも、見せ方ひとつで千に見える、そうでございましょう?」
秀吉はそう私に囁いた。そして笑った。まるで、泥の中でも芽を出す雑草のように、強かで、生き延びることだけに貪欲な笑みだった。信長には見せぬ、その裏の顔を私は見た気がした。そしてこれこそが、「猿」が「武将」としてのし上がっていく力なのだ、と感心したものだ。
そして、十日後。秀吉は、9500余の兵と、数えきれぬほどの火縄銃を携えて岐阜に現れた。信長はそれを見て、ただ一言。
「間に合わせたか。上出来だ、筑前」
その言葉の裏に、信長の本心があったのか、それともただの試しだったのかは、分からない。だが、秀吉の目がその時だけ、ほんの僅かに潤んでいたのを、私は確かに見た。彼もこの世を生き抜くのに必死だったのであろう。
確かに、勝頼は侮れぬ。信玄亡き後、父に劣らぬ知略と武勇で、東美濃から三河にかけて勢力を広げていた。十ヵ国を束ね、獅子のように猛り立つ若将。信玄がなくなって武田はもう終わりだと思っていたが、そうではなかった。信長が家康では太刀打ちできぬと判断したのも無理はなかろう。家康はどうにも気迫というものが足りぬ男だ。
「家康には、無理だな……」
「勝頼殿は、それほどまでに優れたお方でございますか」
私はふと、勝頼に嫁いだ姫のことを思い出した。織田の姫、龍勝院。信長の養女であったが、実は我が家の血筋とも聞いた。勝頼とは3年ほどの夫婦生活で、一子を儲けた。それは仲の良い夫婦であったと聞いておる。
その姫が亡くなった後、勝頼は正室を頑なまでに迎えいれなかったという。まあ、今は側室である北条夫人という存在はあるが。彼の胸中にはなお、あの姫が生きていたのではなかろうか、そんな風に、私は思った。




