長篠の戦いー②:無慈悲な所業――血に飢えた狼
神をも恐れぬ信長
信長も、まったく市殿の心を思いやらぬわけではあるまい。それでもなお、長政への怒りと哀しみは、心の底から拭えぬものだったのであろう。もしやもすると、それは、もはや憎しみというより、恋慕に近き感情であったのやもしれぬ、と思うことがある。
さっきまで賑やかだった宴席が、一瞬で静まり返った。皆が信長の顔色を伺いながら、必死に笑顔を作っておったが、口元はひきつり、顔は蒼白。誰一人として、心から楽しんではおらぬ。中には、信長の機嫌をとろうと踊りだす者もいたが、重く淀んだ空気は、容易に晴れるものではなかった。
(まったく、殿にも困ったものじゃ……)
さすがに、今回ばかりはついてゆけぬ。金箔の髑髏で酒など酌み交わしたい者がおるものか。あんなものを手にして喜ぶのは、信長だけ。まあ、実際のところ信長自身も心から楽しんでおったかどうかは分からぬが。
主君の命令に逆らえば即刻お取り潰し、機嫌を損なえばお手打ち。武家というのは、正に戦国ブラック企業そのものである。パワハラの温床、しかも怒りに任せて殺されても誰も文句すらいえぬ。今なら一発殴るだけでも問題になるのに、首を落とされても家紋ごと泣き寝入りとは恐い世だったことよな。
思えば、あの比叡山焼き討ち以来、信長の狂気は日に日に増していた。あのときに焼かれた僧たち、逃げ惑う女子供の血と叫びと呪い。怨霊が瘴気となって、信長の背に取り憑いているようにすら見えた。
嫁いだばかりの頃の信長は、確かに無茶ではあったが、その背にはまばゆい太陽のような輝きがあった。
けれど今、その光は陰り、やがて闇に呑まれてゆく気配ばかりが大きくなっているように見える。
この先、信長がどのような道を歩むのか――私はこの人の生涯を、見届けねばならぬ。いつしか、それが我が責務であるかのように思えてきていた。
同年初夏、伊勢長島では再び一向一揆が激しさを増していた。信長はそれを鎮めるべく、天正2年6月23日、7万の兵を率いて出陣した。長男・信忠、弟の信包、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、そして羽柴秀吉などの錚々たる将たちが信長に従った。
長島の一揆は、大坂本願寺の影響下にあり、その背後には本願寺・顕如の命があった。反信長派の武士や土豪も加わり、その勢いは尋常ではなかった。信長もかつて攻撃を仕掛け、撤退を余儀なくされた過去がある。あの時の悔しさを、私は今も覚えている。信長は激昂し、酒の席で吐き捨てた。
「だから、わしは坊主が嫌いなのだ!経だけ唱えておればいいものを。刀を持ち武士に挑むとは何様のつもりじゃ!」
宗教一揆は通常、防衛戦を旨とし、攻めて出ることは少ない。だが、その防衛力たるや侮れぬものがある。特に伊勢長島と越前の一揆勢は、屈指の籠城力を誇っていた。
信長は総力を挙げて三度長島を包囲し、ついに中江、屋長島、尾張田楽の三城へ一揆勢を追い詰めた。城に籠もれば防衛戦となり、一揆勢は強さを発揮する。どれほど攻撃を加えても、そう簡単には落とせない。食の流通の道を塞ぐ兵糧攻めを選んだのは当然の策であった。
籠城する者たちの中には、僧侶だけでなく、武士、農民、女子供まで多種多様にいた。食糧を断てば、一気に崩れるのは明白だった。予想通り、本城である長島城は、多くの者の無事退却を条件に降伏の申し入れをしてきた。やがて信長はこれを受け入れたかに見えた――だが。
信長は、退去を始めた一揆勢を容赦なく討った。弓、槍、そして鉄砲による一斉射撃。降伏の礼を尽くした者たちを、だ。これに対して一揆勢も奮戦したが、武装を解いた者たちに戦う術などあるはずもない。死者は万を数え、生き残った者は僅かであった。
さらには、降伏した中江・屋長島両城に火が放たれた。板囲いを巻き、城を焼き討ちにしたのだ。女、子ども、年寄りまでもが、生きながら焼かれていった。その数、二万とも言われる。人間の所業とは思えぬ非道ぶりであった。
この時、信長は東美濃の守将・川尻鎮吉に宛てて、次のような命を下したとされる。
「老若男女、皆殺しにせよ。命乞いも許すな。血筋すら残すでない。皆、斬り捨ててしまえ」
信長は例え降伏しようが初めから誰一人生かしておくつもりはなかったのだ。その言葉に、私は戦慄した。そこに、情けや慈悲というものは一片もなかった。もはや血に飢えた狼のごとし。
(……もう、誰にも止められない)
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