小谷上の戦いー④:落ちる朝倉義景――残すは浅井長政
優柔不断の守護がついた男ー朝倉義景
天正元年8月8日、信長は北近江に出陣、小谷城の西、山田村(大嶽の麓)に陣を構えた。ここはかねてより浅井と朝倉が連絡を取り合っていた要地である。
「長政め、朝倉を選んだこと、死ぬ間際まで後悔させてやる」
そう言い残して出陣した信長の横顔に、私はただならぬ恨みの深さを感じた。
幾度も裏切った松永久秀は許してきたくせに、一度裏切っただけの長政は決して許さぬ。元々裏切る男だと分かって手のうちに置いておいた者と、この男ならば、と信じた者への違い、ということであろう。
思えば、もし長政が朝倉ではなく、信玄に助力を求めていたのならば……信長も、あそこまで長政に執着しなかったかもしれぬ。信玄は、信長が唯一「勝てぬかもしれぬ」と認めた男。そのような者を選ぶのであれば、「仕方ない」と割り切れたかもしれぬのに。
戦国の世、情勢を見極め強い方につくのは当たり前、むしろそれこそが秀でているというものである。だが朝倉義景などという小者を選んだ――そこが信長の逆鱗に触れたのだ。信長と天秤にかけられたのが、義景ごときであったという屈辱。加えて、妹・市殿と、その子らへの憐れみが信長の激情に拍車をかけていたのだろう。
信長が次第に狂気を孕みはじめたのは、この長政との断絶が引き金になったのではないか。それほどまでに、浅井長政は信長の心に強い印象を与えていた男でもあった。
この頃、浅井家重臣の山本山城主・阿閉貞征が織田方へ寝返った。信長はこれを好機と見て、三万の大軍で北近江への侵攻を開始した。
朝倉義景もこれに応じ、軍を率いて大嶽方面に前線を敷く。浅井との連携を図るつもりであったが、信長の進軍は想像を超えて速く、連携が整う前に主導権を握られてしまった。
このとき、信長は次の手を考えてじっとしていたのだが空が急変する。暴風雨が襲来したのだ。
――私は、あの桶狭間を思い出していた。
突如の豪雨、混乱する敵、押し寄せる軍勢。まるで天が、またしても信長を選んだようにさえ見えた。
「風が味方する時、わしは神に近づくのじゃ」
信長は、あの風に乗って突撃を命じた。雷鳴轟く中、信長の軍は次々に砦を落とし、義景の兵を蹴散らしていった。まさに雷獣の如き勢いだった。
義景はあまりにも脆かった。信長の猛攻に恐れをなした義昭は、老臣・山崎義家が止めるのも聞かず田神山の陣に火をかけて逃走を始めた。陣を焼いたのは、信長に拠点を奪われたくなかったからだろう。だがその退却は、もはや敗走に等しかった。
義景は辛くも敦賀まで退いたが、もはや士気は地に落ち、味方は次々に離反した。籠城する案もあったが、義景はそれを避け、平泉寺へと逃れる。だがその道中、身内の朝倉景鏡が謀反を起こし、一乗谷に火を放った。
義景は山田荘の賢松寺に逃げ込んだものの、すでに周囲には景鏡の兵と平泉寺の衆徒が取り囲んでいた。この時、義景の傍にいたのは、わずか十数人の家臣のみ。勝機など、どこにも残されてはおらなんだ。
その月、天正元年(1573年)8月20日、朝倉義景は賢松寺にて自刃した。享年、41歳。「優柔不断の守護」とまで呼ばれるほど、何事にも迷ってばかりで、決断を下せなかった男にしては、立派とも言える最期であったと言えるかもしれぬ。
信長はこれを討ち果たすや、小谷城の浅井長政を討つべく、すぐさま北近江へ兵を返した。長政の終焉が近いことを、信長は肌で感じ取っておったはず。朝倉が倒れた今、浅井だけで持ち堪えられようはずもない。そして、8月27日、虎御前山の砦に到着。いよいよ小谷城総攻撃の時が迫っていた。
朝倉義景の死が小谷に届いた頃には、長政もまた覚悟を決めていたであろう。否、その父と共に浅井家が朝倉と結んだその時から、いつかこの日が訪れることは、分かっておったに違いない。
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