姉川の戦いー③:兄と妹――戦に別れる袂
武家の女子の在り方
朝倉をあと一歩で討ち落とせる、そう思っていたところでの、まさかの撤退。
都へ戻った信長は、荒ぶる炎のような気を纏っていた。素早い決断ゆえに命は拾ったが、それでも、いや、だからこそ、長政の裏切りは許しがたかったのだろう。
信長は浅井長政が気に入っていた。妹・市姫を嫁がせ、義兄弟としてこの先を共に歩めると信じていた。長政と対面した後の信長は大層、上機嫌だったから、それは間違いない。だが、それはあっけなく裏切られた。
妹の市の夫であるよりも、父・久政の意志に従うことを選んだということが、なおさら腹立たしい。多分、長政は信長につくべきだと父親に進言したはずだ。しかし、結局父の命には背けず、信長に弓を引いた、ということは想像に難くない。それでも己の父すら説得できぬような男が、何を背負えるというのだ、と信長はそう考えた。
「所詮は、他人か」
気を静めた信長は、ふとそんな声を漏らしたそうだ。信長は身内にすら幾度も裏切られてきた。ましてや他家の者を、迂闊に信じた己の甘さを、相当悔やんだのは間違いあるまい。こうなれば、朝倉と浅井、どちらも根絶やしにするしかない、と更なる怒りを増幅したようだ。
だがその時、市姫の面差しが、脳裏を掠めたと信長は申しておった。弟たちを討ち、今度は妹まで、この手にかけることになるのかと。市姫は芯が強く、信長にとって素直で可愛らしい妹だった。だが、その夫を、今からこの手で討つのだ。市姫の性格からして、夫が討たれれば、自ら命を絶とうとするであろう。信長もそれは分かっていた。それでも、手を緩めることはできない。
市姫には三人の娘がいる。もし母としてこれから生きる覚悟があるのなら、その道は開こう、信長はそう思っていた。産まれた子が全て女子であったことは、むしろ幸いだった。男子であれば、たとえ赤子であろうと、生かしてはおけぬ。それが戦の論理。されど、姫ばかりなら生かしておける。口にこそ出さなかったが、その姫たちと共に市殿にも生きることを信長は望んでおった。
私もまた、長政が信長に従わなかったと聞いて、市殿の顔が頭をかすめた。市殿と長政殿は、仲睦まじき夫婦であると、風の噂に聞いていた。それは市殿から時折送られる便りでも窺い知れた。勿論、兄である信長をも心から慕っていた。夫と兄とが、敵味方に分かれて戦う。この乱世では珍しいことではない。私にも、思い当たる節がある。
私の夫・信長と、兄・義龍は、敵対した。けれど義龍兄様は、父・道三と弟たちを惨たらしく殺した。だから私は、むしろ信長の手で兄を討って欲しいと願った。そう思えば、同じ立場とは言えぬ。
市殿はきっと、夫・長政が兄・信長につくと信じていたはずだ。それだけに、長政が朝倉に味方したことは、さぞや辛かったであろう。されど、それでもひとたび嫁いだ身であれば、兄・信長ではなく夫を選ぶ。それもまた、武家に生まれた女子の覚悟だ。
私にとって、父・道三様はかけがえのない存在だった。だが、もし父様が信長に弓引くのなら、私は迷わず信長の盾となり、父様に刃を向けたであろう。私は嫁いだ時から、信長につくことを決めておったのだから。
戦乱の世。女たちは流されるばかりと思われがちだが決して、そうではない。たとえ人質であろうと、嫁ぎ先の駒であろうと、意志を持ち、信念を持って行動する女子も、確かにおるのだ。
私は、市殿が生きることを選び、彼女らしくあってくれることを、ただ願っていた。またいつの日か、再び会いたい。そう思った。けれど、それすらままならぬ世に我らは生きていた。もし、市殿が夫。長政殿と運命を共にしたいと望むのであれば、それも仕方あるまい。それが市殿の望んだ生き方であるなら是非もない。私が口を挟むことでもあるまい。
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