姉川の戦いー①:金ヶ崎への進軍――裂けゆく信義の綱
義弟、浅井長政の裏切り
八.姉川の戦い
この日、信長は京都滞在中の医師・半井臚驢庵の屋敷に、木下藤吉郎を呼びつけていた。
「猿、朝倉を討とうと思っておる。そちはどう見る?」
「討つべきかと存じます」
「いつがよかろうな?」
「朝倉は大軍を誇る敵ではございませぬ。が、夏は兵が疲れます。春のうちがよろしいかと」
「わしもそう思うておった。相変わらず、そちはわしの考えがよう分かるな」
「はっ、それは光栄にございます」
藤吉郎は目を丸くしてみせるが、信長の思惑を見透かした上での答え。相も変わらずぬかりのない男だ。
「徳川様にもお供いただくとなれば、三河から兵を呼び寄せねば。なれば、岐阜からも兵を上洛させて、留守を固めましょう。こちらの兵は三万あれば十分かと」
「では家康殿には、わしが話そう。そちは光秀と相談して準備せよ」
「承知つかまつります」
藤吉郎は、常に信長の数手先を読んで動く。だから話が早い。信長も、それが小気味良かったのだろう。かつて私にこうこぼしたことがある。
「猿は、打てば響く。欲しい言葉を、すぐに返してくれる。話していて楽しいわ」
もちろん、藤吉郎のそれは計算ずく。それでも信長は、その才を惜しまず買った。分かっていても、それを実行できる者は少ない。信長が惹かれるのは、正直で愚直な者よりも、狡猾で切れ者。多少の不義理や嘘など、勝ちさえすれば帳消しになる、そう思っていた節もある。信長という男は、理ではなく勝負の勘で動く人だった。
越前の朝倉義景は、恐るるに足らぬ。しかし、その先に控える越後の上杉謙信は、恐ろしい男だと信長も警戒していた。だから越前を支配下に置きたかった。ところが、二条城普請の折、労力を貸してほしい、上洛してくるようにと信長が使者を送っても、朝倉は応じるどころか黙殺。さらに敦賀の金ヶ崎城、天筒山城の防備を固め、信長に備える構えを見せた。
信長は、これに激怒した。協力を願った相手が防御を固める。これは裏切りの前触れと受け取った。朝倉には「朝倉同名衆」という有力家臣団が存在し、彼らが上洛拒否を進言したとされるが、それも信長には言い訳に過ぎなかった。元は協力体制を敷こうと思っていたが、信長の中に朝倉を討とう、という気が起きたのはこのことが発端だ。
信長は短慮で、激情に駆られるところがある。それが敵を多く作る要因でもあった。けれど、当時の彼はそれを「覚悟」と呼んだ。敵を作ることを恐れず、恨みを恐れず、ただ己の信じた道を突き進んだ。
永禄13年(1570年)4月20日、信長は徳川家康と共に三万の兵を率い、京都を発った。琵琶湖の西岸を進み、22日には若狭、23日には敦賀へ。金ヶ崎城を攻め落とし、城将・朝倉景恒を追撃、さらに天筒山城も攻略し、27日には木ノ芽峠のふもとに陣を張った。翌日には本拠・一乗谷城へ進軍する手はずも整い、兵たちの士気も高かった。
その進軍の裏で、重要な役割を果たしたのが、海賊大将・革島一宣だった。もともと朝倉方に属していた彼が信長に寝返り、各港に停泊していた朝倉の軍船を焼き払ってしまったのだ。この一報は、朝倉方の士気を一気に落とした。信長は、「三日で朝倉を滅ぼしてみせる」と豪語した。
されど、光秀はどこか不安げだった。信長がこの自信を見せる背景には、妹・お市の方が嫁いだ浅井長政が、自分側につくと信じて疑っていなかったことがある。朝倉と浅井は古くから同盟を結んでいたが、信長は長政の才と時勢を読む力を信頼していた。今この状況で朝倉に与することは損でしかない、そんな道を長政が選ぶはずはないと、そう読んでいたのだ。
だが、現実は違った。忍びの報告によれば、長政の父・久政は同盟を重視しており、朝倉との絆を守ろうとしていた。長政自身は信長を兄のように慕い、情勢から見ても信長につくのが正解だと理解していた。だから久政に何度も掛け合った。信長につくべきだと、しかし久政は頑として受け付けなかった。
「それでは武士の面目が立たぬ」
そう言い張る父親の説得ができなかった。そして父親とたもとを分けてまで、信長につくことが、この時の長政にへできなかった。
さて、そのような状況になっているとは全く思っていなかった信長の方は、今にも朝倉に攻め込もうと逸っていた。もうじき長政が援軍として馳せ参じて来る。そうなればもう勝ったも同然、と。
しかし、4月28日、小谷城から浅井備前守の使者・小野木土佐が到来し、縁切りの通告がもたらされた。すでに長政は出陣しており、信長を朝倉と挟み撃ちにすべくこちらへ向かっているという。援軍ではなく、信長を倒すためこちらに向かっているというのだ。
(長政の奴……情勢を見誤ったな!)
信長は奥歯を噛みしめ、苛立ちを隠せなかった。信じていた者に裏切られる、その瞬間を何度見てきたか。裏切りなど慣れているとはいえ、どれほど悔しい思いを下からは想像に難くない。
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