信長上洛ー⑥:義昭の感謝状――信長の思惑
信長の考え―そして野望
その手紙の中で、義昭が信長に対し「御父 織田弾正忠殿」と書いたことは、後世にも伝わる逸話として名高い。文面には信長の功を称える言葉が並んでおったが、それ以上に、この「御父」という表現は、最大級の敬意を示すものとされている。
信長は一介の戦国大名にすぎず、義昭は征夷大将軍という立場。しかも年齢差もわずか三歳、兄と慕うならまだしも、「父」と呼ぶにはいささか不自然に思えた。されど、あの険しい流浪の道を、実父のように守り導いてくれた。そんな思いが義昭の胸にあったのであろう。
〈御父 織田弾正忠殿
この度、上洛の道中において賊徒を掃討し、京を平定されしこと、まことに比類なきご武功にござります。幼き頃より父を早くに亡くし、世を彷徨っておりました我が身にとりまして、信長殿のご導きは父君にも勝る恩義と存じ奉り、今後とも我が右腕として力を賜らんことを願ってやみませぬ。此度の御忠誠、心より感謝仕り候。 敬白
永禄十一年十月吉日 足利義昭〉
しかし、信長もこの「御父」には困惑したようで、御内書ごと返上してしまった。義昭の礼は有難いが、将軍の家臣のように見られるのは御免被る、また、後々動きにくい、そういうところであろう。
褒賞を辞退したとはいえ、信長はちゃっかり実利を得ている。和泉の堺、近江の大津、草津に代官を置くことを義昭に承認させたのだ。これは将軍の意を受けてではなく、織田家の意向で政事を動かすための布石にほかならぬ。しかしこんな信長の真意を、義昭はまるで読み切れておらなんだ。
さらに「殿中御掟」と呼ばれる幕政の基本方針を義昭に認めさせた。摂津、和泉、堺、石山本願寺、奈良、尼崎――これらの地に税を課し、軍資金を吸い上げる仕組みを整えたのも信長である。幕府という看板を使いながら、実権は織田が握る。そもそもこれこそが、信長が上洛した本来の目的である。
その為に、義昭を担いだようなもの。この時点で、信長の「天下布武」は、もはや夢物語ではなかった。そして将軍の居城、二条城の築城に着手した。
永禄12年(1569年)4月8日、信長はポルトガルの宣教師ルイス・フロイスと、建設中の二条城で対面した。取り次ぎをしたのは摂津芥川城主の和田惟政。かつては近江甲賀の土豪で、仏教にも詳しく、宣教師らとの折衝にも長けていた。
イエズス会はすでに何人かの宣教師を日本に送り込んでおり、京都にはガスパル・ビレラが信徒の寄進で教会を建てていた。とはいえ、幕府や仏教勢力の圧力もあり、自由な布教はできていなかった。そこで、布教の後押しをしてもらえないかと、比較的日本に慣れ親しんでいたフロイスが、信長と面会することになったのである。フロイスは六年前から日本に来ていて、ある程度の日本語も理解できるようにはなっていた。
フロイスとの体面当日、信長は、自ら刀を帯びたまま工事現場を視察しておった。異国の王なら、現場には近づく事もせず、家臣に指示だけしてあとは高みの見物と言うところだ。フロイスはその姿に感心したが、続く出来事には戦慄した。
現場の人夫が、通りかかった町娘に戯れ、ムタイを働こうとしたのを目にした信長は、何の躊躇もなく刀を抜き、即座にその者の首をはねたのだ。血が宙を舞い、頭が転がる光景に、フロイスは声も出せず震え上がったという。おそらく、その人夫は自分に何が起こったのかさえ、考える暇もなかったであろう。ある意味、じわじわと処刑を待つよりははるかに楽な死に方だ。
しかし信長にとって、それは理にかなった行為であった。軍の統制を乱す者は、容赦なく罰する。それが信長のやり方だった。
その後、信長はフロイスと矢継ぎ早に問答を交わした。ほとんどの質問に、フロイスは通訳を介さず答えてみせたという。 他愛もない質問を散々した後に信長はやっと本題に入った。
「この地での布教が思うように進まなかったら、宣教師たちはみな帰国するのか?」
「いいえ、信徒が一人でもいれば、我らのうち一人は残りましょう」
「ほう…しかし、数年前から布教を試みていた割に、これまであまり信徒は増えておらぬようだが、なぜだ?」
「現地の僧侶の妨害が強く、思うように布教ができておりませぬ」
「さもあろう。坊主どもは己の利しか見ておらぬ。神仏に仕える顔で、金に仕える者どもじゃ。信徒を取られて、自分たちの懐が寂しくなるのが嫌なのだろう。新しい息吹を入れないと何も変わらぬというのに」
信長の口から出たその言葉に、フロイスは目を見張った。数年滞在して日本という閉じた国には、新しき物を警戒する者ばかりが多く、近づこうとする者すらほとんどいない。これほど異質で先進的な思想を持つ者がいるとは思いもせなんだのだ。
この面会を経て、信長はフロイスらの居住を許可し、朱印状を発行させた。僧たちとの交渉の場も設け、一定の布教の自由を認めるかたちとなった。
信長は、彼ら宣教師の持つ知識や教養、医学や科学への見識に強い関心を持った。古い説法よりも、世界の広さを見せてくれる彼らの存在に、何か新しい風を感じたのかもしれぬ。
「坊主の説法などより、ずっと役に立ちそうだ」
と、あとで申しておった。
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