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蝶の舞 ー濃姫ー  作者: 麗 未生(うるう みお)
七.信長上洛
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信長上洛ー⑤:上洛――信長と義昭、交差する運命の始まり

足利義昭の思いー信長の思惑

そうして、夏の盛り、永禄11年(1568年)7月13日。義昭は藤孝、藤長、そして光秀らと共に、一乗谷を発った。炎天下の道中、16日には小谷城に立ち寄り、浅井長政の供応を受けたのち、休懐寺(きゅうかいじ)に三日ほど滞在し、織田家から迎えに来た千五百の兵と合流して小谷を出立。そして22日、美濃・西庄の立政寺(りっしょうじ)へと入った。ここが仮の居館となった。


 信長がようやく姿を現したのは、その五日後、27日のことであった。直垂姿(ひだたれすがた)で現れた信長は、献上品の目録を携えていた。国綱の太刀一振り、葦毛の馬一頭、鎧二領、沈香(じんこう)百斤、縮布百斤、そして銭千貫。


 信長にしてみれば、それほど特別な贈り物とも思わなかったろうが、義昭は、その場で涙をこぼした。

これまで誰もが礼儀は尽くしてくれた。けれど、義昭が心から求めるもの。将軍としての復権に、手を差し伸べてくれる者は一人もおらなんだ。名ばかりのもてなしばかりが続く日々に、気丈に耐えてきた義昭の心は、すでに相当に傷んでおったのだと思う。ようやく、信じられる者、我を支えてくれる者と出会えた。その安堵が、涙となって現れたのだろう。


 そして永禄11年9月7日。信長は義昭を奉じて、尾張・美濃・伊勢・三河・近江の軍勢、総勢およそ六万を率いて岐阜を出立。いよいよ上洛の途についた。


無論、ただ京へ進むだけで事が済むはずもない。これだけの兵を連れているのは、道を阻む敵がいることを見越してのこと。もし旅であれば、私も同行したかったが……こういう時ばかりは、女である己の身が恨めしい。そこらの男には負けぬと自負しておるが、こういう時に妻を同行させると武将としても器量も疑われてしまうのだ。ほんに嫌になるほどの男社会。


 12日には近江・箕作城(みのつくりじょう)とその支城・和田山城を攻め落とし、京に接近。これにより敵対していた六角義賢・義治の父子は本城・観音寺城から逃亡、事実上の無血開城となった。六角氏が支配していた十八の支城も、全て落ちたという。六角氏親子はこのまま二度と観音寺城に戻ることはできなんだ。


 六角氏に通じていた日野城主・蒲生賢秀(がもうかたひで)は最後の抵抗を構えたが、神戸友盛(かんべとももり)の説得により降伏。信長は三井寺・光浄院に陣を取り、9月二26日、ついに都に入る。


 三好三人衆が一戦を挑んでくるやもしれぬと構えてはいたが、信長の勢いに押されたか、結局は大した戦にもならなんだ。信長は義昭を清水寺に、そして自身は東福寺を陣所とした。


 その後、京都の治安維持を細川藤孝らに任せ、柴田勝家らには三好三人衆の一人・石成友通(いしなりともみち)が守る山城・勝竜寺城の攻撃を命じ、29日に落城させた。


 一方で、十四代将軍として擁立されていた足利義栄はすでに都を離れ、行方をくらませていたが、9月30日、病のために死去していた。


 信長は兵の統制にも細心の注意を払っていた。勝利の熱に浮かされた兵が、民に害を成すようなことがあれば、いかなる大義も意味を失う。


「兵が庶民に乱暴を働いた場合は、訴え出よ。厳しく処罰する」


との触れを出していた。思うに、信長の念頭には、かの木曽義仲の事例があったのだろう。義仲が上洛した折、軍勢が都の民を苦しめ、非難を浴びたことがある。それを繰り返しては、天下布武など夢のまた夢となる。信長は、民への思いやりというよりは、その事態を恐れておったのではないかと思う。


 信長はこの勢いのまま、池田城・高槻城・茨木城をも降した。そして、かつて義輝を殺した張本人の一人、松永久秀の降伏も受け入れている。見逃したのではない、利用価値があると判断したのだ。事実、久秀はその後、大和の諸豪族を平定してみせた。あれはあれで、己の命運を賭けた必死の働きだったのだろう。


 そして、ついにその時が訪れる。永禄11年10月18日。義昭は朝廷より正式に「征夷大将軍」として任じられ、参議左近衛権(さこんえごんの)中将(ちゅうじょう)、従四位下に叙された。


 義昭にとって、ここに至る道のりは決して短くなかった。流浪の日々、冷たいもてなし、名ばかりの支援。寄る辺ない思いを抱えながらも、ここまで辿り着いた。将軍の座に返り咲いた義昭は、涙を流して喜んだという。


 信長への感謝は、言葉では言い尽くせなかっただろう。戦の道中、信長は常に先陣に立ち、義昭の進む道を切り拓いた。危険を冒しても義昭を守ろうとしたその姿に、義昭は心から感動していた。信長に対しては褒美を与えようとしたが、信長はそれをすべて固辞し、できるだけ早く岐阜へ戻ろうとしていたという。


――その後、義昭は、信長に感謝の書をしたためている。


私は、その時点では、まさかこの二人がいずれ敵となるなど、夢にも思っていなかった。


お読みいただきありがとうございます。

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