信長上洛ー④:義昭の逃亡――歴史の歯車が回り出す
将軍足利義輝の死ー動く信長
「この者、かなり頭が切れるようじゃ。藤吉郎にも引けは取らぬやもしれぬな。……よし、今日からもう家来だ。杯を取らせようぞ」
「はい、承りました」
信長の上機嫌な様子に、私は胸を撫で下ろした。まるで大役を果たしたような、そんな気すらした。
しかし、もしこの日がなかったなら、16年後のあの惨劇はなかったのか。あるいは、どのように動いても変えられぬ定めであったのか。今となっては、もう分からぬ。信長と光秀の運命は結局は誰にも抗えぬ流れだったのだのだろうか。それでも、ときおり思い返してしまうのだ。この出会いがなかったら、と。
それからほどなくして、光秀は足利義昭のもとへ遣わされることとなった。実際、この時、義昭に与して動いたのは、信長ただ一人であった。
時を遡ること3年、永禄8年(1565年)5月19日。十三代将軍・足利義輝は、細川晴元の旧臣であった三好義継と、その重臣・松永久秀の兵に取り囲まれていた。義輝は武芸にも通じ、鉄砲隊に取り囲まれながらも、自ら太刀を振るって抵抗したが、数には敵わず、無惨にも斬り殺された。
彼らは義輝の従兄・足利義栄を十四代将軍に擁立し、自らの思い通りに政を操ろうと目論んだ。義輝の二人の弟――奈良・興福寺一乗院門跡の覚慶(のちの義昭)と、鹿苑院主の周嵩もまた、その邪魔になると見なされた。
まず殺されたのは、僧籍にあった周嵩。次に狙われたのは覚慶だった。けれど覚慶には、かねてより親交のあった大名たちとの繋がりがあった。なかでも越前の朝倉義景は、義輝と懇意であったことから、三好・松永の行いに強い反感を抱いており、覚慶を守るようにと使者を送っていた。
そして覚慶は、家臣の細川藤孝や一色藤長らとともに、永禄8年7月28日、命からがら京を脱し、近江・甲賀の国人、和田伊賀守是政のもとへと逃れた。是政もまた覚慶を手厚く迎え、身を寄せることとなる。
覚慶はやがて幕府再興を掲げ、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、薩摩の島津貴久らに書状を送り、援軍を乞うた。同年11月には、野洲郡矢島に仮の屋敷を設けて移り住み、ここで還俗して名を「義秋」と改める。齢29の時であった。
義秋は上杉謙信を上洛させるため、名だたる大名たちに次々と手紙を送った。謙信が自分のために動いてくれれば、身が経つと思っていたのだ。美濃や尾張の和睦も視野に入れ、肥後の相良、豊後の大友、安芸の毛利にも書状を送っている。けれど、誰一人として義秋の元へは馳せ参じなかった。
ただ、それらの手紙が義秋の存在を天下に知らしめたのは確かであった。彼は将としての器こそないが、策に長けた人物ではあった。もし名門武家に生まれておれば、ひとかどの武将となっていたかもしれぬ。
とはいえ、義秋の動きは三好政権を刺激することにもなった。三好三人衆の一人・三好長逸が討伐の軍を進めているとの報せが入り、迎え撃つ武力に乏しい義秋は再び逃げることを余儀なくされる。
永禄9年(1566年)8月、義秋は琵琶湖を越え、若狭守護・武田義統を頼った。だが義統ではその後ろ盾となるには力不足で、やがて越前・敦賀へと移動し、ここから上杉謙信や毛利元就へ改めて出兵を要請するも、返答はなかった。
翌年、永禄10年(1567年)11月、義秋は朝倉義景を頼って一乗谷の館へと入る。義景は形式上は丁重に迎えたが、すでに一向一揆の対応に手を焼いており、上洛の意志はおろか、その胆力もなかった。ましてや義秋と共に上洛して、彼を将軍に据えようなどという気概もさらさらなかった。
光秀は、今こそ義秋を擁して京に攻め上る好機と進言したが、義景はこれを疎ましく思ったようで、むしろ遠ざけようとした。義秋は遇されこそすれど、本心はまるで相手にされていなかった。日々がいたずらに過ぎていく中で、義秋は苛立ちを募らせ、こうも運が悪いのは「名が悪いのだ」として、「義昭」と改名する。
名前が変われば運命も変わる、確かにそのような考えはあるが、果たして本当にそうか、と私は思ったものだ。けれど、皮肉なことに、この改名ののち、義昭の運は確かに開けてゆく。不思議なものじゃ。結局のところ、何ごとも結果が全てということかもしれぬな。
そうして、しばらくの後。光秀が信長に遣わされ、義昭のもとへと戻った。
「織田のお館様が、義昭公とともに上洛なさるとご承知されました。つきましては、美濃へお下りいただけませぬかとのお言葉でございます」
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