美濃攻略ー⑦:築城と降雨の奇跡――美濃平定の舞台裏
「家臣にしてやる」―藤吉郎の甘い誘い
藤吉郎――後の羽柴秀吉じゃが、あの男がいかにして美濃攻略を成し遂げたか、思い返すにつけ、あれはやはり只者ではなかったと痛感する。
尾張と美濃の国境、木曽川を挟んだこの辺りは、いわば野武士たちの巣窟じゃ。名を持つような侍でもなく、さりとて百姓ではない、時に盗みを働き、時に命を請け負って報酬を得る連中。だが、侮ってはならぬ存在。戦場では命を削ることを厭わぬ勇猛果敢な者達の集まり、とも言える。ある意味で最も戦に長けた者たちでもあった。
藤吉郎と小六は、そうした野武士たち――日比野六大夫、河口久助、長江半之亟、松原内匠介、大炊助、青山新助、美濃領内の鵜沼の春田、鷺山の杉村、井ノ口の森崎、河津の為井、柳津の梁津らに次々と接触を図り、さらには、秦川、篠木、科野、小幡、稲田、柏井等々……要するに、美濃の周縁部をまるごと藤吉郎の掌中に収めんとする腹積もりであったのじゃ。
金子を惜しむことも無く、さらにはこう言うたそうな――「美濃を攻め落とせた暁には、おぬしらをことごとく信長様の家臣に取り立てよう」と。
藩士に使える武士でない彼らには、主君の庇護など望むべくもない。常に命懸けで糧を得てきた者たちにとって、織田家の家臣という肩書きは、それ自体が命綱となる。保証される俸禄、身分、誇り……全てが手に入る。これを逃す手があるまい。正に馬の前に人参をぶら下げて走らせるようなもの。
この策を聞いた蜂須賀小六は、しばし沈思の後に唸ったという。曰く、「こんな条件に頷かぬ野武士など、おらぬわ」と。藤吉郎の如才なさには、さぞかし舌を巻いたであろう。
尤もこの約束、信長が直々に下した命とは違う。藤吉郎自身の独断であったという。にもかかわらず、あやつは微塵も躊躇わなかった。信長が否を唱えることはないと確信しておったそうな。ちと腹が立つほど、信長の本質を見抜いておったのじゃ。
信長もまた、藤吉郎のその小賢しさを承知の上で用いていた。何もかも計算ずく――まこと、主従とは、互いを手の内に読み合う、妙なる関係である。特に藤吉郎と信長はそうであった。思えば藤吉郎の戯言に、一番面白げに頷いておったのは信長であろう。そして藤吉郎もまたそうであった。
永禄9年(1566年)9月1日、いよいよその時が来た。藤吉郎は作業奉行と密に連絡を取り、築城の資材を木曽川上流から運搬させた。その役を担ったのは、言うまでもなく野武士たち。険しい山道を通る必要などなかった。川を使って木材を流し、途中の墨股で陸揚げし、一気に築城地まで運び込む。その知略たるや、実に見事であった。
これまで幾度も失敗したのは、城を築く前に敵に察知され、攻撃を受けて頓挫したからである。されど、地の利を得た野武士たちの手にかかれば、そんな手間は不要。これによって攻められる前に拠点を築く、まさに奇手であった。
築城の役目は野武士、敵襲への備えは織田軍――役割分担も明確であった。信長もまた、常に備えて小牧山城に留まり、いざという時はいつでも出陣できるようにかまえておった。
残る問題は天候であった。大木を大量に流すには、川の水嵩が欲しい。だが、九月初めは台風の気配もなく、空はからりと晴れ渡っておった。土も乾いて、雨の気配すらなかった。水が足りないと予定通り材木を流せない。皆、じりじりと天を仰いでおった時……なんと、季節外れの雨がぽつりと降り出したのじゃ。
最初は通り雨かと思うたようだ。されど、それは一日、二日と続き、ついには四日間、絶え間なく降り続けた。これには兵も作事人も目を見張った。川は増水し、資材は一気に流されて、築城は予想以上の早さで進んだ。
誰もがこう思った――「やはり天は信長に味方しておる」と。桶狭間のあの雨といい、この時の雨といい、まるで天が采配を振るうておるかのようじゃった。私も、この時ばかりは空を見上げて、思わずつぶやいておった。
「やるのう、天よ……どうか、このまま殿の味方をして下されよ」
信長の背に風が吹いておった。その風を見逃さずに帆を張ったのが、藤吉郎という男だった。あやつは、風を読むのではない。風を呼び、風を育て、やがて自ら嵐となる。――だから恐ろしい。そしてこの藤吉郎の画策は、後の稲葉山城攻め、さらには美濃平定へと繋がってゆく。
あのとき、信長が美濃へ足を踏み入れた時には、すでに半ば勝負は決しておった。見えぬところで戦が始まり、見えぬところで勝利が築かれていたのである。点に見放された者が負ける。人はこれを〝運”と言うのであろうが、それもまたこの世の定め。それが、戦国という時代の、もう一つの貌じゃ。
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