桶狭間の戦いー⑤:今川義元と信長――勝利を信じる者達
桶狭間前夜ー信長と胡蝶の語らい
「軍勢では敵うはずもないのだが、そちの言う通り、わしはこの戦い――負ける気がせぬ。天は、まだこの信長を生かしておきたいと思うておるようだとな」
「できることなら、私も先陣に立ちとうございます」
「それは、ならぬ」
「なぜでございます?」
「そちがそばにおれば……わしは格好良く散って見せたくなる」
「また、そのようなお戯れを」
信長は時折、こんな風に私を喜ばせる冗談を口にした。しかし、これもただの冗談ではなかった。私に“散るところ”を見せたいなどというのは戯言であるのは明白なれど、戦というものに「もし」は付き物。何が起こるか分からぬ。信長は常に自信に満ちておったが、戦の「もし」を軽んじるような人ではなかった――そう、まだ事の時は。
「わしが果てる時は、お前がわしの首を跳ねよ」
「それでは失敗せぬよう、剣の腕も刃も、常に磨いておかねばなりませぬ」
「おう。せいぜい心して精進せよ」
「仰せの通りに」
どうせ布団の上では死ねぬ身――信長は、そう思っておったのだろう。それほどに、自らが進まんとしている道が、茨の道であることを、信長自身、よく理解していた。
だが、信長がこれから歩んだ道は、ただの茨の道ではなく、まさしく“修羅の道”であったがな。
「そちと話すのは、ほんに面白いわ。他の女子が絶対に口にせぬことを、事も無げに言ってのける」
「だって、大うつけの妻ですもの」
こんな会話を私たちはよくしていた。今にして思えば、信長と過ごした時間は、夢か現か、ほんに夢幻のようであった。
さて、その頃――今川義元は、織田方の砦五つを責めるべく、5000の本隊を率いて岡崎を通過し、5月18日には沓掛城に入っておった。
「明日、十九日には織田方の砦に対し、一斉に攻撃を開始せよ。我ら本陣は、明日夕刻には大高城に入るものとする」
そう、義元は全軍に布告した。これは、わざわざ自らが行かずとも、信長の砦など赤子の手をひねるほどに容易なもの、と高を括った采配であった。ほんに――舐めておったのよ。油断大敵とはこのこと。
そもそも義元は総大将でありながら、これまで合戦において苦しい思いをしたことがなかった。まあ、それだけ恵まれておったのであろう。私から言わせれば、ただの“運”に過ぎぬ。もともと血筋も良いゆえに、教養もある御方ではあったが、早い話が苦労知らず。生まれながらにして、土台の整った場で育ち、戦国大名の中でも屈指の動員力を持っておる。それゆえ、慢心もあったであろう。
戦に出るといっても、前線に立って陣頭指揮をとるような者ではなく、もっぱら重臣に任せていた。大軍が勝って当然と思い、警戒心も薄かった。総大将として、いかがなものか――と言うほかない。
義元の動向は、18日の深夜には信長方に届いた。信長に命じられた準備を全て整えた藤吉郎が、信長のもとに報告に参ったのだ。
「いよいよ始まったか、猿」
「はっ!」
「面白うなってきた。胸が躍るわ」
信長は、本当に楽しんでいるようであった。
そうして迎えた未明、永禄3年(1560年)5月19日午前三時頃、松平元康と朝比奈泰朝の軍勢が、丸根砦・鷲津砦に攻撃を開始したとの急報が入った。信長はその報を受けるや否や、飛び起きて出陣の支度を始めた。
「出陣じゃ! ぬかるなよ!」
隣室に控えていた藤吉郎は、その言葉を聞くや、飛ぶように外へ駆け出した。
「お任せあれ!」
藤吉郎は、自ら集めた百姓や野武士たちに指示を出すため、即座に準備に取り掛かった。
「貝を吹け!」
まだどう動くべきかと思案していた老臣たちは、突然の出陣命令に右往左往するばかり。今川がすでに目前まで迫っておると聞かされても、昨日まで動かなかった信長の豹変ぶりに、ただただ驚いておる。その様子がまた、信長には滑稽に見えたのであろう。
「胡蝶!」
「出立にございますか?」
「おう」
「準備はすでに整えてあります」
「さすがじゃ。昨夜はそちの鼓に合わせて、舞も舞ったしの」
そう――昨夜、寝る前に信長はひと舞したのだ。
「勝利の舞じゃ!」
と信長が言えば、私はすかさず鼓を取り出して打ち始めた。信長はニヤリと頷いて、舞を始める。信長は、気が高ぶると舞うのが好きであった。己の士気を高めるため、また、昂ぶる心を静めるため――そして、もしこのまま死ぬことがあっても、悔いを残さぬよう、自らを律するためであった。
〽人間五十年、化転のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり~
こういう時、信長が舞うのはいつも決まって『敦盛』であった。舞い終えた信長の、燃え滾るようだった眼は、沈着冷静な色に変わる。そうやって心を落ち着けて眠りについた信長を見て、私は明日はきっと良い方向に行くであろうと確信したものじゃ。
そんなことを思い起こしておると、出陣の支度を終えた信長が私を振り返り、自信に満ちた顔をして申した。
「では胡蝶、行ってくる。吉報を待っておれ」
「はい」
勢いよく馬に跨った信長は、小姓のみを連れて、午前四時、清州城を出立した。私はその背を見送りながら、ふと思った――
「私が妻でなく、弟だったなら、共に先陣に立てたであろうに」と。
信長の弟たちは、なぜ一緒に天下を目指さなかったのか。あの奇想天外な男と共に戦えることを楽しめば、どれほど面白き人生が送れたことか。叛逆して若き命を無駄に落とすとは――私には、どうにも愚かにしか思えなんだ。
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