桶狭間の戦いー④:風雲の兆し――戦いに挑む策と思い
敵3000、我4000ー前進あるのみ
とはいえ、今はまず、目下の敵――今川義元を討つが先決。そして、この作戦、きっと上手くいく。信長も、そう思うておられるに違いありませぬ。あのキラキラとした眼を見れば、否が応でも伝わってくる。誰が見ても勝ち目などあるまいと首を傾げる戦いではあるが、不思議と、私には“負け”という言葉が浮かばなんだ。信長が、こんなところで果てるはずもない。あの御方は、もっと高みへと登るお人。――私は、それを信じて疑わなんだ。
永禄3年(1560年)5月16日、今川軍はすでに岡崎城に入り、義元はそこで諸将を集め、織田攻略の軍議を開いておった。
庵原元景、三浦備後守、浅井小四郎政敏、朝比奈泰能、越堀義人、そして松平元康――のちの徳川家康。そうそうたる面子が、義元のもとに並んでおったそうな。
各々が織田方の五つの砦を順に攻め、義元は大高城を経て那古野、さらに信長の本拠である清州を落とす――それが、連中の段取りであったであろう。そしてちょうどその軍議の最中、織田方が清州城に籠城の構えを見せた、との情報が義元のもとにも届いた。もちろん、わざと流した偽情報である。「敵は三万、我らは四千。攻めるなど無謀、籠城こそが定石」と。そして義元めはまんまと信じ込んだ様子。
近ごろでは、信長も「ただのうつけではない」との評判が世間にも立ち始めておったが……義元は、どこかで信長を見くびっておったのでしょうな。つまりは、大いに油断してくれていた。殿も見くびられたものじゃ。ま、こちらにしてみればそれは勿怪の幸いと言うところでもあったが。
さて、今川軍が岡崎に入ったとの知らせを受けて、織田家中の老臣たちは――まあ、実に狼狽えておった。無理もない事ではあるが。なにせ、信長は藤吉郎に耳打ちした我らが作戦の全てを彼らに明かしておらなんだ。間者が潜んでおるやも知れぬ故、慎重に慎重を重ねたのである。
防衛のための会議が何度も開かれたが、信長はと申せば、どこ吹く風の様子。欠伸をかみ殺しながら、老臣たちの慌てぶりを見ておった。
「今さら慌てても仕方あるまい。右往左往したところで兵が増えるでもなし、籠城するより他あるまい。さりとて、籠城してもいずれ落ちるであろうな」
などと、まるで他人事のように言う信長。老臣たちは「やはり、ただのうつけであったか」と思ったに違いございませぬ。そして「信長に任せていては織田家が滅ぶ」と、重臣たちを集めて作戦会議を開き、何とか織田の家名を残さねばと思案しておったようだ。
「殿はもはや勝つ気がない。だが、負けては家が断絶する」と、林佐渡守、佐久間信盛、織田勘解由、柴田権六らの重臣たちは、皆一様に渋い面持ちである。信盛は信長の事をよう分かっておる人物ではあったが、自分の意見を表だって言うような御仁ではなかった。
この中にはかつて信長の弟・信行に与して信長に刃を向けた者たちもおったが、信長はそれを赦し、重臣に戻しておられた――器の大きい、という者もあったが、実のところまだ使えると思っていただけであろう。
「織田の家名を残すためにいっそ降伏を……」と佐渡守が頭を垂れたその時も、信長は一向に首を縦に振らない。ただ、ここで討たれるのを手をこまねいて待っているだけ、と言う風にしか見えておらなんだであろう。
まあ、こんな突拍子もない策、老臣たちに話したところで、賛同など得られるはずもない。またこの戦法が敵方に漏れては元も子もない。言わぬが花、とはまた意味が違うかもしれぬが、秘密裏の作戦は知る者を最小限にとどめるのも作戦のうち。
「のう、胡蝶――」
「何か?」
「この戦、どう思う?」
「さて……」
「30000の軍勢に、4000の兵。まともに戦えば勝てぬ。ゆえの目くらましだが――」
「考え得る策をすべて打ち、その上で進むだけです」
「うむ。義元は織田など歯牙にもかけておらぬであろう」
「きっと、そうでしょうね」
「奇襲であれば、正面突破も視野に入れても良いのではないか?」
「それもまた面白うございますね」
「そう思うか?」
「たかが4000の兵で正面から来るとは、誰も思いませぬ。義元の狼狽える顔が目に浮かびます」
「だが、これを申したら、老臣だけでなくさすがの猿も、わしの頭がとうとう壊れたと思うであろうな。こんな話に頷くのはきっとそちだけじゃ」
「私も殿と同類になりましたかしら」
「はは、確かにな」
「でも私は思うのでございます。殿にはきっと戦の神が付いておりまする。殿の考える策に天が味方して下さりましょうぞ」
信長は、私の言葉に満足そうに笑みを浮かべる。
信長様の砦は、鷲津・丸根・丹下・善照寺・中島の五つ。それに那古野と清州の二城。これを4000で分ければ、一つ一つの守りはお粗末なもの。城の守りに重きを置けばそれは益々少なくなる。砦が破れるのは明らか、砦を壊して敵陣が攻め入って来たときにはこちらの兵力はさらに落ちているであろう。ならば初めから砦には囮の兵を置き、主力は密かに敵本陣へ――。この作戦の肝は、相手をいかに欺けるかである。
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