桶狭間の戦いー②:戦の中で――孤独と覚悟と策謀と
猿の出番――藤吉郎という男の読みと執念
永禄3年(1560年)5月11日、奥庭の池のほとりに咲き誇る菖蒲を眺めながら、信長が珍しく、ふうと寂しげな溜め息を吐いた。
「どうなされました?」
「次は今川か、と思うてな。いったい、いつまで戦わねばならぬのだろう」
「お珍しいことを。戦がお嫌になられましたか?」
「そうだ、と言うたら、そちはどうする?」
「どうもいたしませぬ」
「……されど、そちは天下を取るわしが見たいのであろう?」
「無論にございます! されど畑を耕される殿も、それはそれで一興かと」
「戦がなくなったら、二人で畑でも耕して生きていくか」
そんな気など、信長にはさらさらないくせに、時折こうして、まことしやかに話す。この御方は、生まれながらに戦が好きなお方。争いの中に身を置き、人を退け、天下布武を成さんとする。それこそが己の生きる道と、疑うことなく信じている。
迷いなど、あるまい――と、長らく思うておった。されど、こうしてふとこぼされる一言には、もしも別の道を選んでおったならば、という思いも、奥底に眠っていたのであろうか。戦の日々の只中にて、御身もまた、孤独に包まれていたのか。戦国の世、いつ誰が敵になるやもしれぬ。この私のこともそう思うておられたであろう。だからいつっも孤独が付きまとっていたのであろうことは、想像に難くない。
やっとのことで尾張を平定したばかりというのに、今度は義元殿か――。そんな思いがふと湧いて出たのだろう。されど、これも通らねばならぬ道。上り詰めるために今まで準備をしてこられた。ここで立ち止まるわけには参らぬ。信長はは自らを奮い立たせていたに違いあるまい。
(義元か……兵数では圧倒的に不利……)
恐らく、そのようなことを思うておられたはず。そういう弱音は口には決して出されぬお方ゆえ、尚更そう感じた。
「どうなされます?」
「うむ。このまま真っ向勝負で進んで勝てると思うほど、わしも愚かではないぞ」
「……でも、負けるとは思っておられぬのでしょう?」
「当然だ」
「側面、ですかね?」
「ほう? そちもそう思うか?」
本来の戦法であれば、軍勢は数手に分かれ、中央の大将軍が周囲を警戒しつつ進む。兵数で圧倒的に負けておるこちらが正面から突っ込んで勝てるはずもないが、案外と側面は脆い。ゆえに、横より不意を衝けば、勝機が開ける可能性は大いにある。
兵の数こそ義元に及ばぬが、武器は我が方がはるかに勝っておる。信長は、戦に際してどのような武具が有利かを日頃より熟考されておったゆえ、揃えるものにも抜かりがない。義元軍の多くは、短槍や刀、あとは弓程度。対してこちらの軍は、長柄の槍に弓、そして何より鉄砲隊が控えておる。側面の薄きを、これらの装備で突けば、勝ち目は見えてくるというもの。
「されど……敵にそれと悟られぬ目くらましが、必要かと存じまするな。正面の兵が明らかに減ってしまえば、否応なく気づかれましょう」
そう申し上げると、信長はは大きく頷いた。
「それよ!その手があったか。さすがは胡蝶じゃ!」
(ん?)
……あ、なんか思いついたな。さっきまで難しげな顔をしていたのに、今や目をキラキラさせておられる。こういう時の表情は本当に少年のようだ。
「目の前にじっとしておるだけなら、何も本物の兵である必要はなかろう?」
「なるほど!」
信長の考えはすぐに理解できた。本物の兵でなくとも、相手が本物と思えばいいわけだ。正面に配置された兵に見せかける者たち――野武士や百姓などをかき集めて、それっぽく仕立てればよいのだ。動かずにただ居るだけなら、兵に見える格好と動きさえあればよい。本物の兵たちは密かに側面へ回り、油断しているところを襲えば、ひとたまりもあるまい。
信長がそう考えた事は間違いあるまい。装備はこちらが優れておる、大将を討てば、それが勝ちに繋がる。されど、その見せかけの兵たちを、いかに集めるか。そんな芸当ができる者……。
(あっ!)
「藤吉郎」
「猿がおったわ!」
思わず同時に口を突いて出た。顔を見合わせて笑い合う。すぐさま信長は廊下へ出て、大声で命じた。
「藤吉郎をここへ連れて参れ!」
ほどなくして、近習が藤吉郎を連れて参った。近習たちは、信長が一声発せれば即座に動くよう、よく仕込まれておる。いやはや、軍も家中も、躾が肝要というところである。
さて、この男がどう出るか――。
私と信長は、揃って藤吉郎の顔を見つめた。信長は、藤吉郎という男を、損得勘定にかけては誰よりも長けておると見ている。なにせこの男、小賢しいほどに人を見ておる。あれよ、現代風に申せば「空気読む天才」とでもいうべきか。勝つ側につく。それがこの男の生き方じゃ。信長が何かを命じても、それが自らの利益とならぬと見れば、のらりくらりとかわして退くであろう。逃げ足の速さも尋常ではない。
されど――「これは勝てる」と踏んだときのこの男の執念たるや、まこと恐ろしきもの。何をさておいても、ひとたび決めたら貫き通す。つまるところ、自らに利をもたらすと見た相手こそが、この男にとっての「主君」なのだ。忠義よりも利。心根は実に計算高く、気に入らぬ点も多いが――目端は確かである。それだけは否定できぬ。
信長も、そこを見込んで傍に置いておられるのだろう。情にほだされているわけでは決してない。冷静な判断できるゆえに、この小男を使っているというところである。
もし、この藤吉郎が信長の命に素直に従うとしたら――それはすなわち、信長に勝ち目があるということ。信長は、それほどにこの男の情勢を読む目を信じておる。
……それは、私も同じ思いであった。好きではない。好きにはなれぬ。けれども、認めぬわけには参らぬ。この男の見る目は、やはり確かであると。
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