義龍・謀反ー⑥:明智一族――義龍に反旗を翻す
明智光安ー最期の命と遺志
ところがここで、義龍に反旗を翻す一族が現れた。土岐十三流の筆頭たる明智家、その当主・明智光安を主とする者たちである。彼らは明智城に籠もり義龍に逆らった。その中には、義龍に与したはずの明智光秀殿の姿もあった。
光安はもとより中立の立場を保っておられた。いかに父様の義弟とはいえ、義龍が土岐家の再興を掲げておる以上、本来ならば義龍に味方するのが筋である。しかし、どちらに恩義を感じておるかと申せば、それは父様の方であったのだ。それゆえ、光安はしばらく静観しておられた。
されど心中には、義龍の主張に疑義を抱いていたことも事実。義龍が誰かに踊らされていることなど、光安ほどの方ならば見抜いておられたに違いない。確かに、義龍が頼芸公のお種であるという話も、全くの虚言とは申せぬ。じゃが――日頃の道三を見ておれば、義龍を我が子として可愛がっておられたことは明白であった。育ての親に対して刃を向けるとは、あまりに義を欠いた行いではござらぬか。誰が義龍をここまで育てたか、それを省みぬとは、己が血筋を盾にした驕り。義ではなく、欲にかられた結果と申せましょう。
美濃において土岐家の再興を願う者は、未だに少なからずおった。中には、父様に怨みを抱く者もおったであろう。義龍はその空気を読み、血筋をもって名分とし、美濃を手中に収めんとしたのであろうが光安は、それを良しとはされなんだ。
「義龍殿は、まことに頼芸公の御子にてあられるやもしれぬ。されど、育ての父たる道三公の御首を刎ねたその非道、許されるものにあらず」
この言葉に、光安殿のすべてが込められておった。たとえ義龍が頼芸公の実子であろうと、家臣に首を撥ねさせて晒すなど、ありえぬ所業と思われた。ましてや、頼芸公には他にも御子がおられる。義龍が家督を継ぐ必然性など、もともと希薄だったのだ。
光安殿にとって、義とは何よりも重んじるべきものであった。ゆえに、道三公から受けた恩に背くことは、明智の家に生きる者としての恥であるとお考え至った。
「我らがここで義龍に膝を屈すれば、民は“明智も長いものに巻かれた”と嘲るであろう」
決断は重く、しかし潔かった。その覚悟に、一族の者たちは次々にうなずいた。各々が鎧を締め直し、血をたぎらせた。勝てぬと知りつつも、武士の矜持と家の誇りを守るために。これぞ、武士のあるべき姿と、家臣たちも同意した、というところであろう。まあ、殿がそう言えば家臣は従わざるを得ない、と言うところもあるが……。
かくして、明智光安は明智城にて義龍に対し挙兵。籠城するは、老若男女あわせて900に迫る人数。その中には、光秀の従兄弟である秀光・光忠の姿もあった。一方、義龍方では、家臣たちが説得による解決を試みた。事を穏便に治めようとしたのじゃ。されど、義龍はそれを退けた。
「逆賊に慈悲は無用じゃ」
……と、義龍が吐き捨てるように申したとか。されば私としては言いたい。
どっちが逆賊じゃ、と。
弘治2年(1556年)9月18日、義龍は家臣長井隼人佐に3700の兵を授け、稲葉山城を出陣せしめた。兵力差は歴然、明智勢の4倍以上である。勝敗は火を見るよりも明らかである。
開戦より数日、明智勢は劣勢に追い込まれた。兵は疲弊し、矢も尽きる。火矢が放たれ、乾いた木々に火が回り、煙と叫びが空を裂いた。光安は、もとより覚悟していたので、ここに至って切腹を決意された。
「光秀よ、ここへ」
暗き土蔵の中、光安は光秀を呼び寄せた。ふたりは膝を突き合わせ、静かに言葉を交わす。そして光安は、息子たる秀光・光忠を光秀のもとへ連れて来させ、手を取りて、こう命じた。
「明智の血を絶やすな。おまえの手で、必ずや……いつか再び……!」
光秀は深く頭を垂れ、その言葉を胸に刻み込まれたそうな。その後、十余名の一族を率いて、裏山伝いに城を脱出した。空は茜に染まり、明智城の炎がその中に紛れて燃えていた。
光秀は、振り返ってその天守を見たという。燃え盛る城と、そこに散った者たちの姿とが重なり、胸が張り裂けそうであったそうな。
「我らが義に殉じたこと、決して無駄にはせぬ……」
弘治二年九月二十六日、申の刻。明智城、落城。明智光安、享年五十三歳。
険しき山道を抜けた光秀一行は、稲葉山城を遠望できる峠道に出た。その時、光秀はふと思ったそうな。
——己も、かつてはあの城の中におった。
己の立場の脆さ、世の儚さに、胸の内が締め付けられる。涙がまた一筋、こぼれた。されど、今は過去を悔いる時ではない。一族を守り、未来を切り拓かねばならぬ。光秀はそう決意されたという。
翌日、彼らは山岸光信の屋敷に辿り着いた。光信殿は彼らを快く迎え入れたが、彼もまた義龍の支配下にある身。長く匿うことは叶わず、一行はほどなくして京を目指した。
そして、嵯峨天龍寺の近くに、小さな家を借りて暮らし始めた。光秀殿は一族をそこに残し、士官の道を求めて、たったひとり旅に出たそうだ。あてもなく、だが誓いだけは胸に。
「必ずや、再興してみせる……明智の名を、世に知らしめるその日まで」
その誓いを胸に旅を続け、やがて信長に仕えたのは永禄11年(1568年)、9月のことである。およそ10の時を要した。
当時の私は、光秀が斯様な境遇にあるとは露知らず。ただ後に、明智城が落ちたと風の噂に聞き、彼が落ち延びたと耳にした。されどその足取りは、しばらく私のもとには届かなかったーー。
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