君主・信長―④:命がけの諫言――忠臣とは…
帰らぬ声ー届かぬ忠
唇をわなわなと震わせ、青ざめた顔の信長は、凄まじい形相で甚左衛門を睨みつけたかと思うと、廊下へ飛び出し、叫んだ。
「たれかある! 馬を出せ! 胡蝶、わしは爺のもとへ参る!」
叫びながら、信長は廊下を駆け、外へ向かう。その背を追うように、控えの間から小姓の池田庄三郎、前田犬千代が飛び出し、さらにその後を平手甚左衛門が追った。私は障子にもたれかかるようにして、崩れ落ちた。
これは、信長ただ1人の過ちではない。政秀の諫言に耳を貸さなかった私にも、責がある。罪もなく、誰よりも信長の行く末を案じてくれていた律儀な者を、こんなかたちで死なせてしまうとは――。悔やんでも悔やみきれぬ。これからの信長にこそ、政秀のような者が必要だったのに。
今でも思う。政秀が生きていたならば、その後の信長の狂気にも、幾ばくかの歯止めが利いたのではないかと。私が、殿の心の内を政秀に伝えておけば良かった。さすれば、あれほどの忠義者を死なせずに済んだものを……。大失態である。
とはいえ、政秀のような正直者、隠し事のできぬ男が、信長、いや殿の心の闇を知ったならば、いずれ態度に表れる。これまでのように諫言すらせぬようになれば、周囲も訝しむであろう。正直なところ、政秀が耄碌したとか、信長の行く末を見限ったとか、そう思われるだけならまだ良い。けれど、あの頃の信長には――自分の考えを、周囲に悟らせたくない、という思いがあったのだと思う。まだ「ウツケ」のままでいたかったのだ。とくに弟・信行(信勝)殿には、そう見せておきたかったのであろう。
信行は信長と違い、家臣たちの評判も良かった。そして何より、信長の母君・土田御前と共に、尾張の古渡城に住んでいた。土田御前が弟を贔屓していたというのは、自然の成り行きだったかもしれぬ。土田御前が信長と離れて信行殿に付きっ切りになったのは、元を正せばお父上の信秀様のご意向であったと聞く。それが信長と母上様の間に確執を生んだのかもしれぬ。
誰しも、手元にいる子の方が可愛くなるもの。されど、会えぬ子への思いは募らぬものか――そう思わずにはいられぬ。もしその憐憫の情があれば、何かが変わっていたかも知れぬと。
この時代、長子は別格という意識が強くあった。信秀様も、跡継ぎである信長には母に甘えぬ強さを持たせようとしたのであろう。幼き頃より、馬や弓、兵法、鉄砲の扱いを厳しく教え込まれた。信長にしてみれば、母上様のもとで温々と暮らす弟が羨ましく、妬ましくもあったに違いない。甘えられぬ身、甘えさせてくれぬ母――いや、もしかしたら甘えさせてやれぬ母、だったのかも知れぬ。あの頃には分からなかったが、今になって思えば、土田御前もまた信行を可愛がることで、信長への愛情も埋めて産めていたのかもと……。
一方、信行の方もまた、兄に劣らぬとの思いを抱いていたかもしれぬ。「ウツケ」と揶揄される兄より、自分の方が君主にふさわしいのでは――そうした思いが、いつの間にか育っていたとしても不思議ではない。
されど、今になって思えば、それを煽ったのが土田御前であるという確たる証などない。信行殿を可愛がってはおられたが、もしかすると、心の奥底では兄弟が仲睦まじく生きることを願っておられたのかもしれぬ。真実など、誰にも分からぬものだ。確かに、母上様が信長をあまり可愛がらなかったのは事実であろう。だが、その真意はまた別にあったのやもしれぬ。
乱世の世では、親子兄弟とて敵味方に分かれることがある。母がどれほど公平であろうとも、子が争えば人は噂をする。世の常とは、面白おかしく流言飛語を撒き散らす者が必ずいるものよ。
小姓たちと共に政秀の屋敷に着いた信長は、息せき切って政秀の自室へと駆け込んだ。
そこには、白装束に身を包み、切腹して前のめりに倒れた政秀の姿があった。すでにその身は冷たく、部屋の中にはまだ、血の匂いが濃く残っていたという。
政秀の亡骸には、誰も触れた様子もなかった。家人らは、信長が到着するまで手を出してはならぬと考えたのだろう。迂闊に動かしては、どのような怒りを買うか分からぬ。
理由は、机上に置かれた信長宛の「諫死状」にあった。
政秀の子ら――監物、五郎右衛門、甚左衛門の三人は、日頃から父・政秀の諫言を無視し、勝手気ままに振る舞う信長に対して畏れと反発を抱いていた。
父の死を目の当たりにし、信長にどう伝えるべきか――躯はこのままにすべきか、あるいは身を清めて寝所へ移すべきか、三人で相談していたのであろう。ゆえに、報せが遅れたのだ。
だが、信長に彼らの心中を慮る余裕などなかった。今、彼の目に映るのは、すっかり固く冷たくなった、果ててしまった政秀の姿だけである。
「じい!」
信長は政秀に駆け寄り、その骸を膝に抱えた。政秀の手から刀を外すと、信長の手と着物に血が飛び散った。
「お、お召し物が……」
誰かがそう呟いたが、信長の耳には届かぬ。
「じい……なんという愚かなことを……」
その言葉に、政秀の子らは思わず身を乗り出しかけたが、踏みとどまった。信長の目に浮かんだもの――涙を見たからである。唇を噛みしめた信長の瞳から、ぽたりと落ちた涙が、目を閉じた政秀の頬に伝った。
信長の脳裏には、幼き頃から父のように面倒を見てくれた政秀の笑顔が甦る。長じてからも、唯一無二の味方であった。だから、どれほど我儘を言おうと、政秀は傍にいてくれるものと――信じ切っていた。
自分を置いて、先に逝くなど。こんなかたちで命を絶つなど。夢にも思っていなかった。このときばかりは、心の底から腹が立ったと、信長は後に語っていた。勝手に死んだ政秀に対しても、それを止められなかった自分に対しても、何もかもが腹立たしくて仕方がなかったのだと。
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