輿入れー⑦:赤い夕陽の兆し――我が殿はウツケに非ず
天下取りの夢
勢いあまって信長の腰にあった太刀を抜き放ってそこに突き出した、一瞬にして皆の顔から笑みが消えて青ざめた。
「信長殿、この無頼の者どもは何ですか?あなた様のご家来衆にござりますか?」
「家来というわけではない」
「では切り捨ててもようございますね?」
「まあ、別に構わぬが」
と、信長はまたしてもニヤニヤして応える。
「ちょ、ちょっと大将、そんな殺生な…」
「まあまあ、このお方はそこらの百姓娘とは違うようだ」
そこに割って入った人物がいた。立ち居振る舞いからしてただの百姓には見えぬ。武家の者か。
「あ、俺は佐久間信盛。信長とは幼き頃からの友だ」
「まあ、竹馬の友って奴だな」
信盛と名乗った男を見て、信長がそう返す。やはりこの者は武士の端くれのようだ。
佐久間信盛――のちに織田家の筆頭家老にまでなった人物である。肩を並べられるのは柴田勝家くらいだったと記憶しておる。否、勝家より信長が信頼していたと言っても過言ではないだろう。父・信秀が亡くなり、弟の信行と合戦になった時、勝家は信行の先陣を務めて信長に槍を向けたが、信盛はただの一度も信長の敵に回ったことはない。古き良き武士の矜持を保ちつつも、時代の変化に戸惑う中間管理職といった男であった。ただ、最後は信長に三十年も仕えて武功すら上げられぬ者、役立たずだと罵られ、息子共々身ぐるみ剥がされて追放されてしまうのだが……それはともかく、この時は信長にとって最良の友であった。
「短気で豪気なところは、信長にそっくりな嫁子だな」
「嫁なんぞ要らぬと思っておったが、なかなかに面白そうな女子だろ?」
「え? まさか本当に大将の嫁なのか?」
「姫っていうのは美人が相場だと思っていたが、そうじゃない娘っ子もいるということか」
なんという無礼な輩たちだ。やはり斬り捨ててやるわ、と私は刀を再び振り上げる。
「わー、参った参った。確かに大将の嫁だわ。そんなムチャクチャな女子、ここらにはおらん」
「しっかし、そんな恰好で出てくる姫は初めて見た」
その言葉を機に皆が一斉に笑い、私は気をそがれて刀を降ろした。
しかし、この信長という男、どうにも聞いていたようなウツケとは違う気がしてきた。虚ろな目をして涎を垂らして歩く惚け者の類とはまるで違う。まあ、そんな男だったら、とっとと寝首を掻っ切って出て行くところではあるが。
「お前、名はなんと申す?」
「はい?」
嫁の名前くらい覚えておけ、と言いたいところだ。
「町の者はそちを濃姫と呼んでおるぞ」
「なんですか、それ?」
「美濃から来た姫だからだ」
「面白くもない呼称でござります。私は父様には胡蝶と呼ばれておりました」
「ほう。蝶か、そちによう似合うとる名じゃ」
と言って信長はニッと笑った。ん?これは褒められたのか?
「わしもそう呼んで構わぬか?」
どのように呼ぼうが自由であろうに、わざわざ聞いてくるとは一応私を立ててくれておる、と言う事なのか。
「はい、是非、そのように」
私の言葉を聞いて信長は満足気に赤く染まる空を見上げる。私も同じように暮れ行く夕陽を一緒に眺めた。
「胡蝶、わしはいつか天下を取るぞ!」
「それは楽しみでございます」
(どうやら今度の旦那様は当たりのようだ)
などと私は心の中で思い、自然と口元が綻んだ。なれど夕陽を浴びて朱に染まる信長の顔は、私にはまるで血に染まっているように見えた。これが兆し――だったのかもしれない。
そしてその日から、私は度々信長に連れられて町を一緒に走りまわった。尾張でこのような生活ができるなんて思うてもおらなんだ。
(なんと楽しい事よ)
こんな自由な日々が待っているなんて、と、この時の私はまだまだ浮かれていた。それに、妻を娶ったとはいえ、城内でも城外でもそれまでと変わらず遊び回る信長に興味を持った。ウツケ者だとか知れ者だとか言われているが、そうではない。ただのウツケが小姓や乱暴な百姓の若者を連れて、餓鬼大将のごとく暴れ回ったり出来ようはずがない。阿呆には誰もついては行かぬ。それに、信長の目はいつも何か面白い事はないかとギラギラしていて、まるで獲物を探す猛禽のごとし。どうせなら、もっともっと思いっきり暴れさせてみたら面白いのではないか――そんな思いが私の頭をよぎった。
現実はそんな生易しい物ではなかったが――。
父は「信長が本物のウツケなら、その喉元掻っ切って帰ってくれば良し」と言っていた。多分、噂のウツケ者のもとに嫁ぐ私を、それなりに案じていたのであろう。その心配はいらぬことである旨を、とりあえず私はしたためた。
〈信長殿は確かにウツケ者候。なれどただのウツケ者とは違い候。武術を好み、人を読み城内・城外を駆け回り守役の爺のことなどどこ吹く風と聞き流すウツケ者ござ候。なれど姫はこのウツケ者が大層気に入りまして候なればご心配ご無用に存じ上げ候。
父上様参る 胡蝶〉
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