蝮ー⑫:見た目と力――美しさに縛られない私の武道
父と母の結婚、そして私の誕生――
そうして38歳の父は、天文元年(1532年)2月19日、明智光継殿の19歳なる姫を、稲葉城の館へ正室として迎え入れた。その姫こそが、小見の方――私の母だ。
3年後の天文4年(1535年)、私はこの世に生まれた。母は誰が見ても目を奪われるほどの美貌だったが、私はといえば、「美しい」とは程遠い娘であった。それでも父は、私をたいそう可愛がってくれた。
私は幼い頃から武術が好きであった。槍も剣も、そのへんの男どもには負けぬ腕を、10歳になる前に身につけていた。それを父は実に喜び、こう言った。
「今の世は見目麗しきだけでは生きていけぬ。強くなれ。強さこそが武器だ」
……そうは言うが、父自身は美しい女子が大好きなくせに、と私は内心で思っていた。おそらくは、私があまりにも美しくなかったゆえ、気を遣ってくれていたのかもしれぬ。けれど私は、やっとう(剣術)が心底好きだったのだ。どこぞの姫のように、綺麗なおべべを着せられて、おしとやかに手慰みの和歌を詠んだり、舞を舞ったり――そんなことよりも、槍や剣を手にして、庭で大男を相手に立ち回っている方がよほど楽しかった。
十を過ぎた頃(一度嫁に行って戻ってきた頃だ)には、兄弟たちを相手に立ち合えば、3本勝負で2本は私が勝ちとった。兄弟との打ち合いは何よりも面白かった。男でも女でもない、“武術者”として対等に扱ってもらえる時間だった。正直、私は嫁には行かず、戦の場に出たいと願っていた。だが、そこは父も決して首を縦には振らなかった。この時代、女は嫁ぐことがある意味、"戦に出向く”、と言う事であったのだ。
とはいえ、3度も嫁に出されるとは、さすがに想定外もいいところである。どれだけ駒に使えば気が済むのだ。だが、父に逆らうことなど、この頃の私にはまるで念頭になかった。それが武家の娘に生まれた者の宿命というものだ、と思っていたのだから。
それにしても、あれほど美しい母の娘が、どうしてこうも醜女に育つのかと、時折思うことがある。どうやら、私は父の血を色濃く引いたようだ。あの父が若い頃「なかなかの男前だった」などという噂、私は信じていない。腹黒く、欲深く、破天荒で狡猾――それが私の知る父の姿だ。だが同時に、誰よりも勇ましく、誰よりも敬愛していた男でもある。見た目はどう見ても強欲な狸親父ではあったが。
そんな父が「女も見た目だけでは生きていけぬ」と言っていたが、私は思う。――美しさもまた、立派な武器だ。戦国の世でも、今の世でも、それは変わらぬ。美しいというだけで、男という生き物はちやほやするのだ。そのおかげで、女にとって生きやすい場面があることも否めない。ま、持てる武器を行使するのは生きていく上で必要不可欠。それが狡いとも、私は思わぬ。“美”という武器がないのであれば、他の武器を持てばいいだけの事。
そして私はその武器を持たぬ。ゆえに、男に負けぬ力が必要だと、幼き頃から自覚していた。男に組み敷かれる一生などまっぴらだ。私も父のように野心を持ち、のし上がってやりたい――なんて言えば、「女のくせに」と言われるだけだから、口には出さなかったが、本音を言えば、自分の手で天下を取ってみたかった、と今でも思っている。
もっとも、あの頃は女が天下を取るなどと思いもつかない世であった。なれば、もし生涯を共にすべき価値ある伴侶に出会えたなら、その男に天下を取らせてみせようぞ――そう心の内で思っていた。その時は、たとえ敬愛する父であろうと、敵に回す覚悟があった。
……私のその気持ち、父はきっと見抜いていたと思う。二人目の夫が、父に毒を盛られて死んだのだとしたら、それは卑怯なやり口だと非難する者もいるだろう。「真っ向から刀を交えぬとは武士の風上にも置けぬ」とか、つまらぬ正義を振りかざす者もいるかもしれぬ。
しかしながら、相手は、妻の父の命を狙った男だったのだ。毒殺されたのは、ただの油断であり、警戒心の欠片も見えぬ間抜けだっただけの話。父を侮った結果としか言いようがない。私からすれば、ただの愚か者だ。暗殺は先にやった者の勝ち。出遅れれば、こちらが死ぬ。それだけのことだ。それを理解できぬ者に、天下は掴めない。
――そう、勝てば官軍。それが戦国という時代の理なのだ。
武士道? そんなものは、勝った者の背に、あとからぺたぺた貼りつく名札みたいなものでしかない。勝って民の心を掴んだ者こそが正義であり、真の勝者となるのだ。
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