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蝶の舞 ー濃姫ー  作者: 麗 未生(うるう みお)
第三部 十四.それぞれの動向
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それぞれの動向ー⑫:天王山――命の陽炎

運命の分かれ道

秀吉がこれほど早く迫って来るとは。元より、秀吉が光秀に与するとは思っておらなんだ。あの男の腹の内は読めぬが、信長に心酔していた節はある。もっとも、それがどこまで本心であったかは分からぬが。


 ただ一つ確かなのは、秀吉がどんな策を弄しても光秀の味方になるような男ではないということである。なので毛利との戦いにもっと日を費やすと踏んで事を起こしたというのに、それが仇となったのだ。


「……三十日もあれば畿内の国衆を掌握できると思うておった。だが、秀吉は……わずか五日で畿内の喉元へ迫ってきたか」


光秀の低い声が、張り詰めた空気を震わせた。座敷にいた家臣らは言葉を失い、ただ畳の目を睨んでいた。卓上の火が、ひゅ、と揺れる。まるで誰かの命の灯が消えかけているようであった。やがて、ひとりの家臣が恐る恐る口を開いた。


「安土に籠もり、援軍を待つというのは……?」


光秀は、ゆるりと首を横に振った。


「籠もれば、諸将は見限る。籠城とは守りではない……世を動かす者が取る道ではない」


その声音には、かつて信長が語ったときと同じ鋭さがあった。思えば、信長もまた籠城を嫌った。攻めこそが武の本懐。それを誰より知っていたのが、この男だったのだ。障子の外では、風が湖面を渡っていた。琵琶湖の波が安土の石垣を打ち、かすかに響いてくる。


 この城、信長が天下の中心とした都城は、今は光秀の手にある。だが、戦うための城ではない。周囲は湖と平地、逃げ場も守りも薄い。籠もることはすなわち、死を待つことを意味していた。


「決するならば……地の利を取れる場しかない」


光秀は地図の南西を指さした。


「ここだ。山崎。桂川と天王山の狭間。あそこならば兵力差を埋められる」


その指先が地図に影を落とす。蝋燭の炎がその影を揺らし、まるで運命の境を示すかのように見えた。迷っている暇などもうない。何としても秀吉の先手を打たねばならぬ。ましてや、秀吉は大軍を率いてこちらへ進軍している。


「軍を出す。安土を捨てる。山崎にて秀吉を迎え撃つ」


短い一言に、座敷の空気が凍りつく。


「諸君、天下は一度しか取れぬ。勝てば日輪、負ければ土埃」


光秀は立ち上がり、黒漆の胴丸を身に纏った。


「この刃、もはや退くこと叶わず。天王山にて、勝負を決す!」


その声が、安土の城壁に反響した。やがて、鬨の声とともに明智の軍勢が湖岸の道を西へと進んでいった。その背に、沈みゆく夕日が燃え、信長が贅を尽くして築いた安土城が、赤く染まって揺れていた……まるで、主君の怒りが天を焦がしているようにも見えた。私は、その光景を思い描く度にに胸が疼く。


 かつて、あの城の天守から見下ろした琵琶湖の青。信長は「天下を映す鏡だ」と言って笑っていた。

だがその鏡はいま、血を映している。誰の血か?主君を討った明智の、あるいは、天下そのものの血かもしれぬ。


 六月十日。光秀の動向を伺っていた秀吉はすでに畿内へ進軍していた。「官兵衛よ、状況はどうだ」黒田官兵衛が馬上から進み出て、静かに答える。


「光秀はすでに安土を発ち、天王山を押さえにかかっております。が……彼に味方した者はおりませぬ」


秀吉は鼻で笑った。


「ふん。所詮は人望なき策士よ。信長様を討った者に、誰が膝を屈すると思うておったのか」


腰の太刀を確かめながら、目だけは冷たく光っていた。


「天王山を制した者が、天下を制す。そう伝えておけ」


秀吉の顔には、勝機が満ちていた。彼の声に応じるように、空が低く鳴った。雲は厚く、雷鳴が遠くでくぐもって響く。だが、その雷よりも速く、秀吉の軍は山崎へと駆け抜けていった。

お読みいただきありがとうございます。

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