それぞれの動向ー⑪:燃ゆる復讐の道──揺れる灯
光秀の里ー秀吉の決断
さて、同じ頃。秀吉は姫路にて、すでに光秀討伐に燃えていた。城門の外には、兵糧と武具を満載した荷駄隊が列をなし、城下の女たちが握り飯や干魚を籠いっぱいに詰めて運んでいる。戦に向かう男たちのために、何も言わず働くその姿は、今も目に浮かぶようだ。
雨雲が垂れ込める中、湿った土の匂いと汗の臭いが混ざり、まるで戦そのものが呼吸しているようであった。
「城に残す兵は最小限、残りはすべて連れてゆけ!」
秀吉の声が、姫路の石垣に反響した。
「道中の城々は素通り、休むな、止まるな!雨でも進め!」
鬨の声が一斉に上がる。地鳴りのような声。石畳が揺れ、山の鳥が飛び立った。黒田官兵衛が馬上から進み出て、低く囁く。
「光秀はまだ畿内を掌握できておりませぬ。今、叩けば、殿の天下にございます」
その目は、すでに未来を見ていた。官兵衛という男は、戦よりも“時”を見る者だった。秀吉はにやりと笑った。
「官兵衛よ、あやつの首は、もうこの掌にある」
その笑みの裏に、光秀への怒りよりも野心が見えた。信長の仇討ちという大義名分のもと、天下を手中に収める。秀吉のみならず、皆の心は逸っていた。真に燃えていたのは、天下への渇望であった。
※ ※ ※
その頃、光秀は坂本にほど近き勝龍寺にて、諸将の参陣を待っていた。だが、誰も来ぬ。呼びかけた者の中で、まず音沙汰があったのは筒井順慶であった。洞ヶ峠に陣を張り、光秀と秀吉、双方の動きを見極めるという。すなわち、どちらにも与せぬ、ということだ。
「順慶め、いざという時は味方してくれると申しておったのに……」
そう漏らす光秀の顔に、怒りよりも虚しさが滲んでいた。順慶とて愚かではない。風の向きを読む者ほど、生き残るものだ。人の忠義など、所詮は天気と同じ。晴れの日は寄り添い、嵐の日は去る――そのくらいのものだ。
さらに池田恒興。あの男は信長の乳兄弟にして、長年、織田家の中でも信頼厚き武将。光秀は密かに誘いをかけたという。だが、恒興は首を振った。
「殿の恩義を忘れたくはございませぬ」
その言葉は、光秀の胸に深く刺さったであろう。恒興もまた悩んだに違いない。古き恩に報いるか、これからの天下に賭けるか。されど、彼は最後まで信長の男であった。
こうして、光秀のもとから一人、また一人と離れていった。筒井順慶もまた、表では中立を装いながら、裏では秀吉との連絡を密にしていたと聞く。誰もが、信長のいない乱世を前に、次に誰が覇を握るかを見極めようとしていた。光秀の理など、風の前の塵にすぎぬ。
その夜、安土にて光秀の陣では軍議が開かれた。灯された蝋燭の火が、湿気に揺れながら頼りなく明滅している。秀は、沈黙の中で問うた。
「味方は、どこまで来ておる?」
誰も答えぬ。斎藤利三も、明智秀満も、ただ伏し目をしたまま。外では雨が音もなく降り続いていた。その静けさの中に、光秀は自らの孤立を悟ったのだろう。かつて信長のもとで見たあの炎のような輝きは、いまや蝋燭の火よりも脆く、小さい。
安土城の天守に、夜の風が入り込む。薄闇の中、地図の上に置かれた油皿がゆらりと揺れ、山崎あたりを淡く照らしていた。
「……播磨の秀吉、すでに姫路を発ち、摂津へ向かっていると申すか」
光秀の声は低く、わずかに震えていた。
(まさか、これほど早く……。あやつ、戦支度も整わぬうちに出たのか?高松の講和を終えてすぐか?)
家老の明智秀満が、地図上に小さな駒を置く。
「殿、秀吉軍、すでに尼崎あたりに迫っております」
油皿の炎が揺れ、地図の摂津の地名を照らす。光秀は唇を噛んだ。
「早すぎまする……殿の御計略を進める暇がございませぬ」
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