それぞれの動向ー②:闇の中――恐れを知る家康
暗闇に震える男
しかし、そう決めたものの、帰路が問題であった。京都を通って帰ることはできぬ。光秀はすでに京都周辺を掌握しておる。出くわせば一巻の終わり。東海道も封鎖、または監視されていると考えた方が良い。信長と同盟を結んでいた家康は、光秀にとって敵以外の何者でもない。
「とにかく、生きて三河へ帰ることが先決!」
その一点においては、もう誰も異を唱えなんだ。だが、そこからが問題であった。
「こうなっては、伊賀の山中を抜けるしかないでしょう」
そう言い出したのは、服部半蔵正成であった。目の奥に宿る光は鋭く、まるで山そのものを見通すようであった。
「簡単に抜けられるような道なのか?」
家康が問う。長年の人質生活で辛抱強さは得たものの、あの男は決して野山を駆けたことなどない。ま、はっきり言って軟弱な男よ。半蔵は静かに首を振った。
「簡単……ではございませぬ。道なき道を行くことになりまする。崖をよじ登り、谷を渡り、獣の通る跡を道とするような……」
家康の顔が曇る。
「そ、そんな……馬は通れるのだろう?それならば……」
「いえ、馬が歩けるような平坦な道ばかりではございませぬ。時には馬を捨てねばなりませぬ」
「馬を……捨てる?」
「まあ、崖をよじ登れる馬でも降りましたら良いのでしょうが」
及び腰になっている家康に半蔵が、皮肉交じりに応える。このようなところが家康の人間らしいところだと、家臣たちもとおの昔に承知しておったが、時にため息をつかずにはおられないことも少なくなかったようだ。
「そんな芸当の出来る馬がおったら、苦労せぬわ!どうせよと言うのだ……」
このときの家康の狼狽、目に浮かぶようじゃ。後に天下を取る男とはいえ、この頃はまだ“弱き者”の影を色濃く宿しておった。
「我々には、立派な足があるではありませんか!」
榊原康政の言葉に、家康は肩を落とした。
「まさか……徒歩で行くと申すのか? 山の中には、獰猛な獣もおるのではないか? 熊とか……」
肩を小さく震わせる家康を見て、半蔵は思わずため息をついた。この時、きっと家臣たちは籠にでも乗って逃げられると思っていたのかと、内心感じていたに違いない。
「だからこそ、追っ手もかかりにくいのです。熊より恐ろしいのは人の執念でございましょうな」
半蔵の言葉に、家康は息を呑み、何とも情けない顔をして頷いた。
「わかった。そちに任せる」
「御意。道案内も護衛も、この服部半蔵が務めまする。伊賀は、我が故郷にございますゆえ」
こうして家康一行は、伊賀の山を越えて浜松を目指す事となり、山霧の中を進み始めた。夜の伊賀は静かでありながら、何かが潜む気配に満ちておった。足音一つが命取りになる。半蔵の忍びたちは、闇に紛れ、家康一行の前後を固めていた。まるで山そのものが彼らを隠しているようであった。梟の声が響けば、忍びのひとりが囁く。
「梟はよい兆し、夜を渡る者の守り神にございます」
「そうか……ならば、ありがたいことだ」
家康は震える声で返したという。しかし、次の瞬間、藪の奥で何かが動いた。
「熊だ!」
家康が叫ぶと、康政が慌ててその口を塞いだ。
「静まられよ!熊ではなく、我らの斥候でございます!」
現れたのは、泥まみれの忍びのひとり。敵兵の探索を終え、戻ってきたところであった。それでも家康の顔は青ざめ、手は震えておった。その道中も、敵が潜んでいるのではと怯え、足音がすれば「追手だ!」と一目散に隠れ、家臣たちを呆れさせた。
全く……これで天下を取るのか。よく生き残ったものよ、と私は感心するばかりである。だが恐れを知る者こそが、時に運を掴むのだ。
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