本能寺の変ー⑩:炎の中の誓い ――信長の首を抱いて
懐に抱えたかの人の重み
「お方様!」
蘭丸の声で我に返り、私は燃え崩れる廊下を駆け出した。火の粉が髪を焼き、衣が焦げる。腕の中の首を落とすまいと抱きしめるたび、血が掌を伝った。首に気を取られていたためか、足がもつれ転びそうになり、腕の中からかの人の頭が転げ落ちる。
「殿……!」
蘭丸が咄嗟に拾い上げ、懐に抱え込む。追手の足音。すぐそこまで来ている。
「女か?信長の身内か!」
声に振り返ると、見知らぬ兵が数人、火の粉の中に姿を現した。光秀方の兵だ。蘭丸の気配が殺気立つ。しかし、首を抱えたままでは戦えぬ。幸い、我らは白い寝装束。身分は隠せる。
「お、お方様の侍女にございます!」
私は咄嗟に叫ぶ。
「ああん?」
「ど、どうかお慈悲を……この者は身重にございます。本日、宿下がりにて……!」
男はじろりと我らを見て、蘭丸の腹、膨らんだ着物の中へ視線を落とす。血に塗れておっても、この混乱の中、そこに不思議はない。しかし、蘭丸の懐の中にある者が何か見られたら終わりだ。万事休す!
「腹に子がおるのか。……女子供には手を出すなとの命が出ておる。行け」
どうやら信じたらしい。蘭丸はその美しい顔立ちから、よう女と見間違われておった。本人は憮然としておったが、ここでそれが役立つとは、何が助けになるか分からぬものじゃ。私は息を殺し、指先を奥に向ける。
「奥の部屋に……信長様と、お方様が……!」
「何っ!?誠か!」
「ようし、首はわしのものじゃ!」
男たちは血走った目で、我先にと奥の部屋へと駆け込んでいった。その隙に、私と蘭丸は外へ。炎の中を駆け抜け、倒れかけた塀を乗り越え、闇の路地へ身を潜めた。外気が、熱かった。だが、あの燃える地獄に比べれば、どんな熱も冷たく思えた。
「お方様、こちらへ!」
蘭丸が私の手を引く。着物の裾は血に濡れ、焼け焦げ、息は荒い。それでも彼の目は鋭く、わずかな恐れも見せぬ。年若き少年の心には、武士としての誇りが確かに息づいていた。その時、炎の向こうから声が響く。
「中に濃姫様がおられるはず!何としてもお助けせよ!」
光秀の声だ。あの温厚な笑みを知る私には、信じがたいほど鋭く響いた。私を助けよというその言葉さえも、腹立たしい。
(……光秀、お前の手には落ちぬ。私も殿も…)
私は蘭丸の袖を掴み、再びわが手にその首を抱え直して走り出す。この首を、誰にも触れさせぬために。
やがて、本能寺の炎が背後で崩れ落ちる音が響いた。空には赤い灰が舞い、京の町が夜明け前の地獄と化していた。息を潜め、裏手の林に身を隠したとき、蘭丸が空を見つめて言った。
「坊丸も、力丸も……もう戻りませぬな」
その声は、静かであった。私は頷くしかなかった。蘭丸の弟たち、坊丸、力丸。幼き頃より信長の傍に仕え、主のために生き、主のために死んだ。彼らはまだ10代半ばの若者たち。だが、その魂は誰よりも烈しく、清らかであった。
(あの子らの死を、決して無駄にはせぬ……)
私の胸に、炎よりも熱い誓いが宿った。蘭丸は六人兄弟の三男である。長男の森可隆は元亀元年に19歳の時、戦で討死している。次男の長可は13歳で家督を継ぎ、森家の後継者として信長に仕えていた。
弟たち、四男の長隆(坊丸)・五男の長氏(力丸)、六男の忠政(千丸)が蘭丸と共に信長の小姓として務めていたが、忠政は少し前にちょっとした問題を起こして、森家に帰されていた。
なのでこの変事に巻き込まれず、命を救われた。今となってはそのことを良かったと思うしかない。この後、小牧・長久手の戦いで次男の長可が討死し、この忠政が森家の家督を継ぐことになったのであるから。
そして夜が明ける中で、私はさらなる報を聞く。
「お方様……二条御所におられた信忠様も……」
道行く人々の囁きから、信忠のことを知らされ、蘭丸が耳打ちする。私は目を閉じた。織田信忠、誰よりも信長の血と気質を色濃く受け継いでいた嫡子。才もあり、礼もあり、信長も買っていた。なのにあっけなくこの世を去ったと?私は、抱えていた首を見つめた。父も子も、共に炎に呑まれた。残されたのは、この首ひとつ――それだけ。
天正10年(1582年)6月2日未明、一夜にして全てが終わったその日は、私の中で歴史が変わった日として胸に刻まれた。
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