本能寺の変ー⑧:信長と胡蝶――地獄の果てまでも
狂喜乱舞-散り行く舞
光秀は繊細な男であった。礼を重んじ、詩を愛し、だがその裏に強烈な自尊心を秘めていた。信長の激しい言葉が、どれほど彼の誇りを傷つけていたことか。だが、謀反を企てるとは、思いもしなかった。それほどまでに、信長への恨みを募らせていたというのか。
……私が、もう少し気づいていれば。その悔いが胸を掠めた瞬間、矢が天井を貫いた。近習たちは懸命に応戦していたが、火矢と鉄砲玉の雨に倒れていく。多勢に無勢、この場はまさに地獄であった。一万の敵に、我らは総勢百にも満たぬ。いかに“第六天魔王”と称された男でも、この夜ばかりは天に背かれた。
「お館様、奥へ!」
「うるさい!ちょうど血に飢えていたところよ。皆、この刀の餌食にしてくれようぞ!」
その手に握られていたのは、宗三左文字、名刀中の名刀。幾度も主の勝利を見届け、数多の血を吸ってきた刃である。京の灯を映し、妖しく輝くその刀身に、私は息を呑んだ。
「宗三も、今宵で見納めか……」
と信長は低く呟いた。あの刀が泣いていた。主と共に散ることを、誇りとしているかのように。その光景は、もはや戦ではなかった。炎の中で、主従が一体となり、運命と刃を重ね合わせる瞬間であった。血飛沫が舞い、信長は咆哮した。
その姿――返り血に染まり、狂気と誇りの狭間で嗤う男。その背には誇り高き武士の姿が見えた。炎の中で狂喜乱舞する男の姿を美しい、とさえ思った。人の形をした修羅。だが、あの人の心は、いつも孤独の炎に焼かれていたのだ。なのに、今はあんなにも楽しげに笑いながら舞っておる。その時、蘭丸が駆け寄ってきた。
「お方様!」
私を守るように立ちはだかる美しい若武者。
「お前は……逃げよ、蘭丸。まだ若い身ではないか」
「いいえ。殿とお方様を残して、生きることなどできませぬ」
その目は、燃え盛る炎よりも熱く、真っ直ぐだった。忠義とは、かくも清らかなものか。
「必ずや、地獄の果てまでお供いたしまする」
思えば、信長という男は、愛する者にも、忠臣にも。ある時は、わざと怒りを買うような命を出し、ある時は、残酷な言葉で揺さぶり、反応を見ていた。
「人の心は、追い詰めてこそ、真が見える」、そう申していた。私も幾度となく、彼の“試し”を受けた。それでも、私はこの人のそばにいた。誰よりも危うく、誰よりも強く、美しい炎のような人だったから。
命など、もとより儚い。
ならば、どう散るかこそが武家の誉れ。そう教えられたあの時から、私の道は決まっていたのかもしれぬ。炎が天へと昇り、梁が崩れ落ちる音がした。
(ああ……このような最期を迎えられるとは……)
胸の奥から、熱く澄んだ何かが湧き上がった。恐怖ではない。歓喜だ。やはり私は、信長と同じ性のものなのだ。信長と共に戦に舞い、共に果てる。それこそが、私にとっての生の証だった。全身の血が逆流して、ぞくぞくするような思いが沸き上がる。
「胡蝶、ぬかるな!」
「はい!」
炎の渦の中、信長の瞳は水を得た魚のごとく輝いていた。剣を振るうその姿が、何と輝いて見えたことか。このお方は、本当に“戦うために生まれた人”、そう思わずにいられなかった。
「お館様! お方様! こちらへ!」
蘭丸が叫び、敵を斬り払いながら奥の間へと導く。だが、その刹那。
「ぐっ……!」
信長の肩に一本の矢が突き立った。白い衣は瞬く間に紅に染まる。信長は、私の肩に手を置き、荒い息を吐きながらも進む。
「信長はどこだ! 奴の首を取れ!」
怒号が響き、炎が迫る。
お読みいただきありがとうございます。
いいね・評価・ブックマーク&感想コメントなど頂けましたら大変励みになります。
今後ともよろしくお願いします。




