蝮ー⑩:主君の愛妾を求めて――父の野心が招いた運命の歯車
虎の目と深芳野の微笑――主君の愛妾を賭けた一閃
深芳野様は、父の蛇の如き眼差しを受けた刹那、背筋にぞくりと寒気を覚えられた。
(この男……)
いつの日か、この男に身も心も奪われる日が来るのではないか――そんな予感が、胸中を駆け巡ったと。
かつて私は、一度だけ深芳野様に問うたことがある。
「父が憎くはござらぬのですか?」と。
頼芸公の寵愛を受けておられたのに、父の横恋慕によって奪われたも同然である。それゆえ、私には深芳野様がどのようにお思いであったか、知りたかった。
しかし、深芳野様は何も仰せにならなかった。ただ、静かに微笑まれるばかり。あの時、深芳野様が何を思われていたのか。それは、今もって私には分からぬままである。
これは、頼芸がまだ守護職に就く前のことだ。父は槍の名手で、祖父からその手ほどきを受けたと聞いている。ある酒宴の席で、酔った頼芸が父に座興を命じた。
座敷の襖に描かれた虎の絵を見て、
「その虎の目を突いてみせよ」
と言ったのだ。
「突き破らず、目の中心に針ほどの傷をつけることはできるか?」
難しいことではあるが、できぬことでもないなと思った、と父はのちに語っていた。
けれど、その場ではあえて大げさに、
「そのような難事、成し遂げられる者などおりますまい」
と、唸るように答えた。すると頼芸は面白がって、
「やはりそなたにも無理か。音を上げるか」
と揶揄った。
「音を上げたりはいたしませぬ。ただ、褒美が一つでもあれば、いかなる難しいこともやれそうな気がいたします」
父はわざと恐る恐る言った。
「褒美か。褒美があればやってみせると申すか。よかろう、くれてやろう」
「誠でございますか?」
「うむ。ただし、この城や余の身上をやるわけにはいかぬぞ」
「そのような畏れ多い事、滅相もございませぬ」
「ならば、それ以外で余の自由になるものなら、何なりとくれてやろう」
頼芸は家臣たちの前でそう言い切った。
「承知した、殿がそこまで仰るのであれば。もしできませぬ時は、私はこの首を差し出しましょうぞ」
そう答えた父に、場にいた者たちは息を呑んだ。そしてそのまま座興としての試技が始まることとなった。
父は三間半柄の槍を手に取り、襖の虎の目に向かって構える。静まり返った酒席の中、父は軽やかに歩を進め、誰の目にも止まらぬほどの素早さで虎の目の中心を突き、一閃ののちに頼芸の膝元へ戻った。
「終わったのか? よく見えなんだが……」
「ご覧あれ」
そう言われて襖を確かめると、虎の目の中心には、針の穴ほどの傷がひとつだけ残されていた。
「おお、見事!」
頼芸は感嘆し、
「どんな褒美でもつかわそう」
と上機嫌である。すると父はにんまりと笑ってこう言った。
「なれば……深芳野殿をいただきとう存じます」
場の空気が凍りついた。よりにもよって主君の愛妾を所望するなど、誰も予想だにしていなかった。頼芸が言葉を失っている隙に、父はすかさず口を開いた。
「この場で賜った殿の寛容なるお言葉、しかと承りました。殿の懐の深さに我が心は喜びに打ち震えております」
と、声高に言い切られては、頼芸ももはや退けぬようになった。他の家臣たちの前で怒ることも否定することもできず、
「……くれてつかわす」
としか言えなかった。父は恭しく頭を下げた。
「身に余る栄にございます」
頼芸が唇を噛んでいたのは、言うまでもないだろう。
もっとも、父とてこのまま愛妾を戯れに得ただけでは頼芸公の不興を買うことは分かっていた。なのでその場でそっとこう続けたのだ。
「この恩に報いるため、殿を11代守護職の座にお連れいたします」
そう言われれば頼芸に返す言葉などなかった。実際、この男がいなければ守護職になどなれはしない。
そして父のその言葉は決して虚言ではなかった。有言実行で父は政頼を討ち、頼芸を守護職の座に据えた。
しかし、もし父が深芳野様に懸想をしなければ、父の運命は大きく変わっていたのではないかと思える。邪な思いが結局は身を亡ぼすことになろうとは、よもや想像だにしていなかったであろう。
これが因果応報という事なのかと、つくづく思わざるを得ない――。
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