本能寺の変ー④:信長の試し――若き忠義の者
嫁いだ果てー30年という年月
「お館様!ご乱心召されますな!」
「乱心だと?こやつが手にしている小刀が見えぬか?わしに刀を向けおったのだぞ!」
「お方様を、お館様自らの手で斬って捨てたなどと周りに知れたら、面目が立ちませぬ!」
「そのようなこと、どうでもよいわ!」
「……分かり申した。それでは、私が代わりにお方様の首を撥ねてみせましょう」
「何?」
「お館様の手を、お方様の血で汚すわけには参りませぬ」
蘭丸の声は、若さの中に不思議な静けさがあった。この状況下で、こんなことを言い出せるのは蘭丸の他にはおるまい。されど、私も信長がどれほど怒り狂おうとも、私を本気で斬るとは思うておらなんだ。そこまで凶刃に成り下がってはおらぬと。
しかしながら、もし本当に刀を振り下ろしてきたら、相打ちにするくらいの覚悟は持っておったがな。だいたい信長も、あれほどの大声を出したのは、ここに蘭丸が飛び込んでくることくらい、承知の上であろう。襖1枚隔てただけの場所に控えておるのであるから。
もう五十歳手前だというのに、大人げないところは、嫁いだ頃のままである。そう思えば、まだ十七歳の蘭丸の方が、ずっと落ち着いて見える。どういえば、信長が引くかよう心得ておる。
そのとき、彼はそっと懐から小さな護符を取り出し、私の前に落とすように差し出した。掌に収まるほどの布包み。信長の目を盗むようにして渡されたそれには、焼け焦げた香の匂いがかすかに残っていた。
「……お怪我なきように」
声にならぬほどの小さな囁き。忠義とは、時に命よりもまっすぐなものだ。この子の純粋さは、まるで春先の白梅のようだ。そのあと、信長はしばし沈黙し、そしてふっと息を吐いた。どうやら蘭丸の一言で、熱が少し冷めたようである。
「もうよいわ……お前のせいで気がそがれた」
そう言って、信長は刀を鞘に納めた。
「蘭丸、世話をかけましたね。もう下がってよい」
私が言うと、蘭丸はちらりと信長の顔を見た。
「大丈夫、殿の首を突いたりせぬゆえ」
と私が笑みを浮かべて言葉を重ねると、彼は小さく頷いて部屋を下がった。
「ちっ!相変わらず口の減らぬ女子よな」
信長がどかりと座り直して言い放つ。私はため息をつきながら、護符を袖にしまった。
(――試しておるのだろう。いつものことじゃ)
信長は時折、こうして周囲の者を追い詰め、どこまで耐えるかを見ていた。それは狂気の一端でもあり、また、彼の人を見る“試し”でもあった。家臣も、妻も、皆その眼に測られていたのだ。
だが、私はもう、試されることに慣れてしまっておった。あの人が何を見ようとしているのか、本心など、とっくに分からぬ。それでも、あの炎のような眼を、私はまだ嫌いにはなれぬのだ。
「昔もこんなことがありましたね。あの時は政秀殿が血相変えて飛び込んでまいりましたが」
「ああ……そうじゃったな。あれから、もう何年になる」
「三十年ほど、経ちましたでしょうか」
「もうそんなに経ったか。ついこの間のことのように思えるのにな」
「ほんに……」
信長は火鉢の灰を弄びながら、遠い昔を見るように目を細めた。灰が静かに崩れ落ちる音が、時の流れの儚さを告げるようであった。
「そちは今も剣の腕は立つようじゃな」
「あなたのような男を夫に持ちますれば、いつ命を狙われるか分かりませぬゆえ」
「わしの寝首を狙うておるのは、そちではないのか?」
「私が子でもなしておりましたら、それもあったでしょうね。我が子に跡目を継がせたくて」
「ふっ、それはそれで想像がつかぬわ」
「まあ、私もですわ。意見が合いますことで」
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