本能寺の変ー③:突きつけられる刀――命などくれてやる
交わる刃―睨み合う夫婦
「殿、最近は随分と気が立っておられますね」
「はーっ。何もかも気に入らぬことばかりじゃ」
「殿の目指すところは、もう目前でございましょう」
「気の利かぬ者ばかりに囲まれて、息が詰まるわ」
「殿が厳しゅうなられただけだと、お見受けしますよ」
「胡蝶……わしは変わったか?」
「ええ。昔は不躾な悪童でしたが、今は随分とご立派に。亡きお父上によう似てこられたように思われます」
「父上に、か……。そうか…」
信長はそう言って、わずかに笑った。笑みは寂しげで、子供のようでもあった。私はその横顔を見て、ふと昔を思い出した。まだ織田家が尾張一国の小勢力に過ぎなかった頃。ある夜、信長は愛用の茶碗を誤って割ってしまい、座敷で一人笑っておった。
「器が割れたなら、茶もこぼれよう。だが、こぼれた茶を惜しむより、次に淹れる湯の加減を考えろ」
そのときの眼は澄んでおった。天下を取る男の眼ではなく、まだ夢を追う若者の眼だった。だが、今の信長には、あの澄んだ眼がもう見えぬ。
「ところで、毛利の方はどうなりました?秀吉殿も頑張っておられるようですが」
「うーん。全然埒が明かぬのう。わしが行ったほうが早いわ」
「さようでございますか」
「お、そうだ!日向に行かせようぞ」
「光秀殿に、ですか?」
「少しくらい武功を立てさせてやらねばなるまい。あやつは頭でっかちでいかん」
「近頃、光秀殿への当たりがきつうございませんか? あれでは……」
「なんじゃ?わしのすることに文句でもあるのか?」
「大いにあります。殿のなさっていることは、ただの憂さ晴らしに見えまする」
「ほう……口が達者になったな」
「お山の大将のようでございますよ」
私がそう答えると、信長の眉の端がつり上がった。とはいえ、ここで怯む私ではない。私は信長の臣下ではない。顔色を窺ってびくびくしたり、機嫌を取る必要もない。腹を立てて私を追い出すなら、それで結構。離縁上等というものじゃ。
「お前、わしに殺されたいのか?」
「気に入らぬ者を、すべて斬って捨てるおつもりですか?」
「ほう……」
静かにそう言ったかと思うと、信長は素早い動きで後ろにあった刀を手に取り、私の頬に当てた。
「このまま首を撥ねてやろうか」
「お好きにどうぞ」
私は正座したまま、身動きもせずに答えた。こんなことで怖気づいておったら、信長の妻など務まらぬ。それに、少し凄まれただけで皆が必要以上に怯えるから、この人もつけ上がるのだ。
――武家の女子が嫁ぐのは、戦場に行くのと同じ。命は捨ててかかれよ。
父様がそう言って、小さな木剣で私の喉を突いた日のことを思い出す。まだ十にもならぬ頃だった。木剣の先がかすめた皮膚の冷たさと、父様の低い声、「首は惜しむな、だが恥は惜しめ」。あの教えが今も胸に残っておる。
(……そう思えば、30年も信長の妻でよく生き永らえたものじゃ)
「ほう……そちの頭が血しぶきをあげて宙を舞うのは、さぞ見ものだろうな。蝮殿もあの世で待っておられるだろう」
「思ったより早く来たと、歓迎してくれるやもしれませぬね」
私がニッと笑って言うと、信長は唇を噛み、歪んだ笑みを浮かべた。だがまるで恐怖は感じない。
(ああ……やはりこの人も私も、どこかイカれておるわ)
「命が惜しくないのか?今すぐ土下座せい!命乞いをしろ。さすれば許してやる!」
「私がこのまま、おめおめと殺されるとでも?このウツケが!」
「黙れぃ!貴様、その口、二度と利けぬようにしてやる!」
信長の怒声に、廊下に控えていた蘭丸が飛び込んできた。刀を振り上げる信長、胸から短刀を抜き構える私。その光景に、蘭丸は目を見開いたが、すぐに間に割って入った。
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