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蝶の舞 ー濃姫ー  作者: 麗 未生(うるう みお)
十三.本能寺の変
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本能寺の変―①:安土に集う影 ――光秀の胸中と信長の苛烈

信長の癇癪―募る蟠り

    十三.本能寺の変


 天正10年(1582年)5月15日。駿河一国を賜った徳川家康が、穴山梅雪ら近臣を伴い、安土へと参った。領地拝領の礼を述べるためである。恩義の礼など、早めに済ませておくに越したことはない。遅れれば、恩は冷め、猜疑の種となる。家康はそのあたりをよく心得ておった。


 梅雪――甲斐源氏の名門、かつて武田家の重臣であったが、主・勝頼が滅びる一端を担った男とも言える。家康も彼を伴うことで、己の立場を正しく見せようとしたのかもしれぬ。梅雪という男、穏やかな顔をしておるが、腹の底は深い。笑顔の裏に刃を忍ばせておるような。家康の周りには、そういう者ばかりが揃っておる。実に用心深い。


 この頃、天下の行方はすでに定まりつつあったが、中国の毛利はなお抵抗を続けていた。備中高松では秀吉が泥田に足を取られ、難渋しておる。あの地は水多く、兵も病に倒れる。秀吉は兵を動かすことにかけては妙を得ておるが、自然の難には勝てぬようで手こずっておるようだ。


 ゆえに、「いずれ信長自らが出陣するであろう」との噂が、安土の城下に風のように流れておった。家康が慌てて礼に参ったのも、信長が遠征に出る前に済ませようと思うたのだろう。


 家康が持参した礼物は、黄金三千枚、鎧三百領。全く、抜け目のない男じゃ。血筋は良い男である。幼き日、今川の人質として過ごしたことで、己を殺し、人の心を読むことを覚えた。誰に笑えば喜ばれるか、誰の沈黙に危険が潜むか、それを嗅ぎ分ける術に長けておる。


 その点、秀吉は違う。あれは生まれながらの成り上がり者。信長が「土下座せい!」と怒鳴れば、躊躇なく畳に額を打ちつける。人の目など気にも留めぬ。だがその潔さこそが信長を笑わせ、機嫌を直させるのを、誰よりも早く学んだのじゃ。狡猾でありながら、計算を見せぬ天性の才であろう、それが秀吉よ。


 光秀は、そのどちらでもなかった。文雅にして剛直、理と礼を重んじ、己の矜持を曲げぬ男。しかし坂本の屋敷におったためか、信長に度々呼び出される役目を担うこととなってしまっていた。毛利と対峙しておる秀吉は中国・備中高松に出陣中、家康は甲斐・信濃の巡察中とあって、光秀の居城が信長のいる安土からは一番近く、重用しておった。


 若き日の光秀は、まるで都の貴公子のようで、武よりも書と歌を愛しておった。ある春の日、まだ私が斎藤の屋敷にいた頃、光秀は私に一首を贈った。


――春の夜の 夢の浮橋 とだえして

峰にわかるる 横雲の空――


 「夢の浮橋」とは、この世の儚さを言う。あのとき私は笑い、「それではそなたは夢の中に生きるのですか」と問うた。光秀は穏やかに、「夢もまた現のうちにございます」と答えた。……今思えば、あれは己の行く末を、どこかで悟っていたのかもしれぬ。


 じゃが今の光秀は、頭もすっかり薄くなり、信長に「ハゲ」と呼ばれておる。光秀にとっては屈辱であったやも知れぬが、信長という男、気に入った者にこそ渾名をつける。家康は「タヌキ」、秀吉は「サル」。その呼び名の裏に、妙な親愛と警戒が同居しておるのだ。真に嫌う者には、名すら呼ばん。


 家康の拝礼の席での接待を任されていたのも光秀である。この日もまた、信長の怒声が安土の大広間に響いておった。襖の向こうからは盃が割れる音、誰かの悲鳴が聞こえる。家臣が青ざめて廊下に並び、誰も口を開かぬ。私は遠くからその気配を感じ、立ち止まった。光秀が叱責を受けておると知ったのは、その後のことじゃ。


 膳立てが遅いだの、酒がぬるいだの、まことに些事で、信長は光秀を怒鳴りつけたという。盃が彼の前に叩きつけられ、膳が倒れたと聞く。それでも光秀は、黙して頭を下げたまま、唇を噛んでおったそうな。血が滲むほどに。思うに光秀は真っ直ぐで、傷つくことしか知らぬ気性だったのだ。


 もう少し、秀吉ほどにとは言わぬが狡猾さを持っていたのならば、行く末はまた違っていたのではないか。だが、その純粋さが、信長の苛烈さを映す鏡となってしまったのだろう。

お読みいただきありがとうございます。

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