武田家の滅亡ー⑧:天目山の夜――勝頼父子、最後の語らい
壮絶な最期―
かくして武田の名門は滅び去った。甲斐も信濃も、もはや信長の掌の内に収まったといえよう。誰もが織田の威勢を恐れ、信長の一挙手一投足に震えていた。
されど皮肉なことに、皆が恐れれば恐れるほど、私には信長が器を小さくした男に見えてならなかった。かつて私が共に天下を目指したあの雄々しき信長はもうそこにはいない、今の信長はただ己の影に怯える人間のように映ったのだ。
その一方で、家康は計算通りに駿河を得た。信長は配分に抜かりなく、嫡男信忠には甲斐と信濃、滝川一益には西上野、森長可には信濃四郡、木曾義昌には千曲郡、河尻秀隆には甲府を与えた。
森長可(蘭丸の兄)は若さゆえの気概に満ち、荒々しき統治を見せた。武勇は申し分なきものの、血気にはやり、領内を荒らしたと言う話も聞く。信長の家臣団の中でも、その真っ直ぐすぎる気質は時に暴走しがちでひときわ強く、これもまた織田の勢いの裏に潜む危うさであった。
また、河尻秀隆は信忠と共に甲府に入り、甲斐の政務を任された。信長が特に信頼を寄せた将であったが、その忠節も長くは続かなんだ。後に一揆に討たれる運命を思えば、この時の晴れやかなる姿は、かえって儚き影を伴っていたように見える。未来を知る私には、その笑顔がかすかに歪んで映るのだ。
その一方で、家康は計算通りに駿河を得た。信長は配分に抜かりなく、嫡男信忠には甲斐と信濃、滝川一益には西上野、森長可には信濃四郡、木曾義昌には千曲郡、河尻秀隆には甲府を与えた。家康は本心では甲斐も信濃も欲していたであろう。だが臆病ゆえか、あるいは老獪さゆえか、その時は口にせなんだ。
「今は欲張ってはならぬ」と己を抑え、じっと耐える。家康という男はそういう器量を持っておった。これも長い間の人質生活で培った世渡りの術かも知れぬ。その場で口にしてよい事とそうでないことを上手く使い分けておったのだ。時々、あの臆病さは狡猾さゆえの見せかけではと思ったりもしたものだ。
さて、家康にとって問題は穴山梅雪との約束であった。勝頼を裏切る代償に、家康は「甲斐を与える」と口約束していたのだ。しかし、それを信長に申すことなど到底できぬ。なぜなら、この頃の信長は家臣が勝手をすれば烈火のごとく怒り狂い、場合によっては一族すら断罪しかねぬ気迫を帯びていたからだ。家康は信長の家臣、と言うわけではなく同盟を結んだ身ではあるが、この時の家康にはとても逆らうことなどできぬ相手であった。
駿河を取り上げられるのを恐れた家康は、苦心の末、駿河の一部と甲斐の一部を切り分けて梅雪に与えることで手を打った。彼は平身低頭、何度も頭を下げ、どうにか約束を果たしたのであろう。家康は誇りよりも生き延びることを第一とする。武士の大義よりも、その場をどう凌ぐかを選ぶ。見ている分には実に面白き男であった。
そして梅雪も承知した。彼とて信長が恐ろしかったのである。親族を裏切り勝頼を滅ぼすほどの決断をした男であったが、その心根には常に「織田に逆らうな」という恐怖があったに違いない。木曾義昌や小山田信茂らの離反が相次いだのも、この恐れを後押ししたといえよう
あの時代の武士たちは皆、信長の影の下で光と闇を背負わされておったのだ。丹羽長秀のように細やかに采配を振るい、忠勤を尽くした者もいれば、梅雪や義昌のように恐怖と利で動いた者もいた。勝頼が最後の夜、信勝や臣下と策を巡らしながらも孤立を深めていった姿を思えば、武士の盛衰とはかくも儚きものかと思わずにはおられぬ
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