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蝶の舞 ー濃姫ー  作者: 麗 未生(うるう みお)
第一部 一.蝮
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蝮ー⑨:蝮の毒――祖父の死後に覚醒する父の野望と欲望

蝮の胎動――斎藤利政の野望と美濃制覇

 大永5年(1525年)6月、挙兵した長井長弘と祖父は、守護所たる福光館(ふくみつやかた)(岐阜市)を陥落せしめ、勢いに乗じて斎藤氏の居城・稲葉山城をも攻略した。内乱はなおも続いたが、享禄3年(1530年)に至り、政頼は再び越前へと落ち、頼芸が濃州太守(のうしゅうたいしゅ)となり、一応の決着を見た。


 この頃、祖父・新左衛門尉は長井豊後守(ながいぶんごのかみ)と称し、主君たる長弘と肩を並べるほどの存在と化していた。弱体化した守護代・斎藤氏の領地を山分けするまでに至り、実に着々と自らの野望に近づきつつあったのである。


 されど天文2年(1533年)4月1日、祖父・長井豊後守は病を得て死去、享年70歳であった。父が世に出たのは、祖父が逝去したこの年からである。この折の父の名は長井新九郎と称した。祖父・新左衛門の死を機に、父はこれまで潜めていた梟雄(きょうゆう)ぶりを遺憾なく発揮した。或いは、これまでは祖父に対し一応の遠慮をしていたのかもしれぬ。父は祖父の話をする折、まことに楽しげであった。祖父という人間を、心より敬愛していたのであろう。


 父・新九郎はまず、この祖父の死んだ年になんと祖父の主君であった長井長弘を暗殺し、自らが長井家の当主に取って代わったのだ。父はこの時を待ち望んでいたに違いない。祖父に対しては一応の敬意を払えども、長弘の存在ある限り、その上へは昇れぬと、早くより覚悟を定めていたのであろう。祖父の面目を保つため、これまで手を下さなかったが祖父の亡き今、もはや思うがままに動ける。何を憚ることがあろうか。邪魔な者はさっさとあの世へ送るに限る、と笑っていたことが容易に想像できる。


 さすがは蝮。元は油売りであったことから、「蝮の油」になぞらえてその異名を得たとの説もあるが、父が「蝮」と呼ばれた所以(ゆえん)は、むしろその腹に秘めたる毒にある。実際に油売りをしていたのは祖父のみであり、父は携わっておらぬのであるから。ゆえに、父が蝮と称されたのは、「刺激すれば命を落とす」との畏れに由来するのだ。不気味なる怖さを纏う人であった。なれど私はそんな父の一面も好ましく思っていたのである。


 かくして天文5年(1536年)、父は守護・土岐政頼が籠る川手城を攻め落とし、政頼を追放し、頼芸を正式なる守護の座に据えた。この功績により、一時途絶えた土岐家の守護代・斎藤家の名を継ぐことを頼芸より許されるに至った。この時より、父は斎藤利政(さいとうとしまさ)と改名し、美濃の政務の実権を握る事となった。 

 

 父は頼芸に大層気に入られておった。父は話術にも長け、武術のほか、絵画・彫刻・遊芸の全てにおいて目を養っていた。頼芸は絵の腕前が見事であり、殊に鷹の絵などは父をも唸らせるほどであった。「土岐の鷹」と言えば、今に伝わる名画である。絵など上手くとも何の役にも立たぬと兄たちに揶揄されていた頼芸にとって、己が技を称えてくれる父は、さぞ居心地のよい存在であったのであろう。

 

 正直なところ、その絵を見るまでは、父もお坊ちゃまの手慰み程度に思っていたそうだ。しかしながら頼芸は君主の器ではなくとも、絵の才だけは秀でていた――後に父は笑いながらそう申しておった。


 頼芸は、父や祖父とは異なり、根っからのお坊ちゃま育ち。野心こそあれど、自力では何ひとつ成し得ぬ男。されど、そんな頼芸なればこそ、祖父や父にとっては都合が良かったのであろう。血統も育ちも良きお人好しの若君、盾とするにはまたとない存在であったのだ。


 父は、祖父が存命の頃より、頼芸公の側室であった深芳野(みよしの)様に懸想していたのだ。当時、深芳野様は美濃一の美女と謳われた御方である。頼芸公の側室として初めて紹介された折から、父は心を奪われてしまったようだ。


 頼芸公は深芳野様を殊のほか寵愛され、滅多に人前にはお出しにならなかった。しかし、父には心を許し、対面を許された。これが運の尽きであった。深芳野様は背が高く、細身にして類稀なる美貌をお持ちであられた。父はどうしても、その御方を我が物にしたくなり毎夜、どうすれば己が手中にできるかと考えあぐねていたそうだ。全く持って男というのはどうしようもない生き物だ。主君の寵姫なら普通は諦めるものだが、そうしないところがいかにも父らしいとも思えるが。


 深芳野様の身の丈は、五尺七寸(約173㎝)あったと伝えられる。現代でもモデル並みの長身であるから、この時代の女子(おなご)としては、まこと抜きん出ておられたと言える。その御姿は、父の目には神々しくさえ映ったのだ。


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