引きこもりの子爵令嬢と結婚したら、幸せをつかみました
アーノルド・ローレライ伯爵子息は、由緒ある伯爵家の四男に生まれた。才覚に恵まれ、剣の腕も立ち、美男子に育ったが、残念ながら彼は跡取りになることはない。そのせいか、せっかくの才能も美貌も持て余した彼は、未亡人や家格の高い夫人に言い寄られることが多く、ほとほと女性にうんざりしていた。
女性不信になりかけていた折、父のローレライ伯爵から、スカーレット子爵に婿入りが決まったと告げられる。完全な政略結婚であった。自分が女性と結婚し、あまつさえ子をもうけるなど嫌悪しかなかったが、家長に逆らえるはずもなく、彼はしぶしぶスカーレット子爵家に赴き、妻になるはずのヴィオラと顔合わせをしようとした。
スカーレット子爵夫妻はにこやかに出迎えてくれたものの、いつまで待ってもヴィオラが現れない。ヴィオラは病気がちでほとんど外に出たことはなく、デビュタントも欠席しているということはアーノルドも聞いていた。とはいえ、見合いの席にまで顔を出さないのはさすがにおかしい。不審に思った彼は、恐る恐る夫妻にヴィオラの所在を尋ねた。
夫妻は、ここまできたらもう隠し通せまいと腹をくくり、言葉を選ぶようにぽつりぽつりと話し始める。
ヴィオラは、両親の目から見ても美しい娘だった。将来は社交界でも話題の美女となるだろうと、両親は期待した。ところが、美しすぎるがゆえ、ヴィオラが8歳のころ、スカーレット子爵家に日雇いで来ていた下男に誘拐されかけたのである。
それ以降ヴィオラは引きこもりがちになり、夫妻ともほとんど顔を合わせず、使用人が食事を持っていっても扉は閉ざされたまま、気づけば食べ終えた皿が外に出されているという状態だ。扉を無理に開けようとすると、両親も震え上がるほどの奇声を上げるらしい。それほど、ヴィオラの心の傷は深かった。
それを聞いたアーノルドは、これはしめたと心の中で膝を叩いた。このままヴィオラと結婚すれば、煩わしい女性からの誘いも減るだろう。何より引きこもりの娘なら、嫌悪していた子作りも避けられるかもしれない。
「ぜひ、この結婚を前向きに進めたく思います」
アーノルドの嬉々とした様子に、夫妻は顔を見合わせた。いくらあとが継げないとはいえ、名門伯爵家の四男である。子爵位をアーノルドに譲ることにはなるが、ほとんど騙し討ちのような婚約に、彼が激怒することを夫妻は覚悟していた。にもかかわらず、アーノルドは心から前向きにこの婚約を結びたいと考えているようだ。
これ以上の縁談はもうないだろうと考えていた夫妻は、アーノルドの反応を意外に思いながらも、涙して彼に感謝した。アーノルドは、子爵位を手に入れることができ、さらに煩わしい女性関係から解放されると天にも昇る気持ちである。さっそく次の日から、子爵家当主の勉強と称して、アーノルドはスカーレット子爵家に身を寄せることにした。
引っ越し当日、アーノルドは夫妻に連れられ、ヴィオラが閉じこもっているという部屋の前まで連れられる。スカーレット子爵が扉をノックするが、当然反応はない。
「ヴィオラ、今日からお前の婚約者が一緒に住むことになった。アーノルド・ローレライ伯爵子息様だ」
「はじめまして、アーノルドと申します」
扉がどんと大きく叩かれる。アーノルドが驚いて夫妻を見ると、夫人が小さくため息をついた。
「……これは、その、ヴィオラの『いやだ』という合図で」
「ヴィオラ!アーノルド君はすべてを知って、それでもいいと言ってくれているんだ」
「スカーレット子爵、私は大丈夫です」
アーノルドは穏やかな笑みを浮かべ、子爵を制す。もしここで扉が開き、うっかりヴィオラに惚れられても厄介だ。自意識過剰と思われるかもしれないが、このときのアーノルドはそれほど追い詰められていた。
「ヴィオラ嬢、私はあなたに無理強いしたいと思っていません。そのまま部屋の中にいてくださってけっこうです。ただし、子爵家は存続させなければいけませんので、私が屋敷に滞在して子爵を継ぐことはお許しください」
今度は、扉を叩く音はしなかった。扉の向こうでかすかな物音は聞こえるが、ヴィオラが何を思っているかまではわからない。
とはいえ、少なくとも、アーノルドが子爵位を継ぐことを、ヴィオラはいやだと表明しなかったのだ。これはアーノルドにとっても、夫妻にとっても大きな収穫である。
それからのアーノルドの生活は、とても充実したものになった。ローレライ伯爵領よりは小さく、酪農がメインの小さな領ではあったが、自分自身の裁量で領地経営ができることは、彼の自信を取り戻すのに大いに貢献した。ローレライ伯爵領の小麦を優先的に輸入できるおかげで、スカーレット子爵領特産のチーズケーキの開発もでき、王都からわざわざそのチーズケーキを求めて人も増えた。
チーズケーキは、「ヴィオラのチーズケーキ」として売り出したおかげで、夫妻からのアーノルドの評判も上がったし、社交界に姿を現さないヴィオラを、婚約者として大切にしているということもアピールできた。時折、ヴィオラの部屋にもそのチーズケーキを持っていっているが、完食しているという。その事実も、子爵夫妻を感動させた。
こうして「ヴィオラのチーズケーキ」は、口々に評判を呼び、とうとう王室御用達の称号を手に入れることができた。スカーレット子爵夫妻とアーノルドは、王家からの親書に抱き合って喜んだ。
「アーノルド君のおかげで、スカーレット子爵家は安泰だ!本当に、本当にありがとう」
「とんでもないです。これもすべて、お義父様とお義母様のご指導のおかげです」
「いいえ、すべてアーノルド君の努力のおかげよ!」
アーノルドは満面の笑みを浮かべる子爵夫妻を見て、今しかないと口を開く。
「では、そろそろ私とヴィオラ嬢の結婚について進めたいのですが……」
笑顔だった夫妻が、たちまち申し訳なさそうな表情に変わる。
婚約は正式に済ませているものの、夫妻としては娘のあの状態に、結婚を進めることをためらっていた。そうは言っても、誰かに子爵位は譲らなければならないし、その相手がアーノルドであることも問題はない。しかもアーノルドは、結婚式などなくても問題ないし、子どもは夫妻の選ぶ養子で構わないとも言っている。恐ろしいほど自分たちに都合のいいことばかりで、夫妻は一歩踏み出せずにいた。
「ヴィオラ嬢のことは、あの状態でも私は何の問題もありません。もちろん、私が正式に家督を継いでも、ヴィオラ嬢の生活は保障いたします。誓約書も書きますが?」
「いや、アーノルド君のことを信頼していないわけじゃない。ただ……」
「そうね、アーノルド君には本当に頭が上がらないわ。だからこそ、申し訳ないの」
アーノルドであれば、もっと立派な高位の令嬢とも結婚ができたはずである。それが、こんな「ハズレ」を引かせてしまったと、夫妻はどこかで思っていたのかもしれない。もちろんアーノルドにとっては、これ以上ない「アタリ」だったわけだが。
「申し訳ないだなんて!私は本当に今の生活に満足しています。お二人のことも、実の両親以上に尊敬しています」
アーノルドの屈託のない真剣な眼差しに、夫妻は感激で涙をこぼす。そうして、やはりこのままではいけないと、アーノルドが引っ越して以来約一年ぶりに、三人そろってヴィオラの部屋の前に向かった。アーノルドは、「別にいいのになあ」と呑気なことを思いつつも、夫妻が満足するならとてくてくついていく。
ヴィオラの部屋の前には、「ヴィオラのチーズケーキ」を食べたらしい形跡が残されていた。
「ヴィオラ、『ヴィオラのチーズケーキ』が王家御用達となったよ」
スカーレット子爵が、いつになく優しい声で扉の向こうに声をかける。やはり反応はないが、扉の向こうでかすかな音だけが聞こえた。
「これもすべてアーノルド君のおかげよ。ヴィオラも、わかっているんでしょ?」
ヴィオラからの返事はいつまで待っても返ってこない。
「ねえ、ヴィオラ。あなたが深く傷ついているのはわかってるわ。お母様も、あなたに何もできなかったこと本当に後悔しているの。でも、お願い。ヴィオラ、お願いだから顔を見せて?」
夫人が扉にすがりつく。扉の近くまで来ていたのか、いつもより大きな音が聞こえた。
「あなたもこのままじゃだめだって本当はわかっているんでしょう?アーノルド君はとってもすばらしい方よ。絶対ヴィオラのことを大切にしてくれる。だから!」
夫人の悲痛な訴えも、扉を開けるほどの力はなかったようだ。夫妻の小さくなる背中を見て、アーノルドは短く息をつく。
「ヴィオラ嬢。『ヴィオラのチーズケーキ』はお口に合いましたか?ああ、いえ、お返事はけっこうです。きれいに完食された皿を見ればわかります。あなたにも、このチーズケーキが気に入っていただけた、私はそれだけで満足です」
これは本心である。なぜならアーノルドは、自分の才能が発揮でき、煩わしい女性関係から解放されれば、それでよかったのだから。
「ヴィオラ嬢、私はスカーレット子爵を継ぎたいと考えています。そのためには、あなたと結婚するしかない。結婚式はもちろん必要ありませんし、あなたはその部屋から一歩も出なくてかまいません。……私と、結婚していただけますか?」
アーノルドの言葉に、部屋の向こうでがたんと何かが倒れる音がする。あわてて扉をこじ開けようと夫妻が動くと、扉の向こうから女性の声が聞こえた。
「……だ、いじょうぶ、だから!」
おそらく、ヴィオラの声だろう。弱々しく、声も少しかすれ気味でたどたどしくはあったが、しっかりとした言葉だった。
「あ、の……。わたしは、やっぱり、外が怖くて」
「はい」
「アーノルド、様、が、スカーレット子爵領のために、奔走、してくださっているのは、本当にありがたくて」
「これは好きでやっていることですから」
「それ、なの、に……。わたしは、何も、返せそうにないです」
ヴィオラの声が震えている。泣いているのだろう。
八歳のまだ無邪気なころに、得体の知れない男に拐かされそうになったのだ。心の傷は一生癒えないことはアーノルドにもわかる。彼はまだ男性で、名門伯爵家の名が守ってくれていたので、無体を働かれたことはなかったが、アーノルドもいつヴィオラと同じ目に遭ってもおかしくはない状況だった。だからなのだろうか、アーノルドは会ったこともないヴィオラに、不思議と恋や愛とはまた違う、仲間意識のようなものが芽生えていたのだ。
「あなたが、健康で生きてさえくれればかまいません。それが、スカーレット子爵夫妻の幸福になりますから。そして、お義父様とお義母様の幸福は、私の幸福です」
アーノルドの言葉に、夫妻も涙をこぼして抱き合う。
「そん、な……ほんと、に……?」
「はい、本当です。ですので、私と結婚してもいいというお許しをいただけませんか?」
「わたし、いい、んです、か?」
「私はあなたと結婚して、スカーレット子爵領をますます繁栄させたいんです」
「……は、い……お願い、します……」
ヴィオラの返事に、夫妻がますます涙を流す。
「あ、の、わたし、何もできない、けど、できること、ありますか?」
ヴィオラの言葉に、アーノルドは少し考え、軽く手を打つ。
「それなら、ぜひ、手紙のやり取りをしていただけませんか?ああ、私あてではなく、お義父様、お義母様あてに」
「……わか、わかり、ました」
「ありがとうございます。今日はお話ができてよかったです」
「わ、わたし、も、です……。……あの、よければ、また、お話、して、してください」
「ええ、もちろん。私たちはこれから夫婦になりますから」
その後、アーノルドとヴィオラは結婚式は挙げなかったが、正式な夫婦となり、アーノルドはスカーレット子爵家の正統な跡継ぎとなった。
ヴィオラはアーノルドとの約束通り、定期的に夫妻あてに手紙を書いているようだ。手紙だと思ったことが素直に書けるようで、夫妻も以前よりも穏やかになった。
アーノルドは、正式な跡継ぎとして、一人でほうぼう出向くことが増え、実家のローレライ伯爵家にも仕事の話で頻繁に訪問している。今や飛ぶ鳥を落とす勢いのスカーレット子爵次期当主に、実父は苦笑いで「お前を跡継ぎにすればよかった」とたまにこぼす始末だ。もちろん、半分は冗談である。
そのたびにアーノルドは笑ってこう返す。
「愛する家族と領地がありますので、ローレライ伯爵家は兄上たちにお任せいたします」