1話
目を刺すように輝く結晶樹の幹に切れ込みを入れるとどぷどぷと樹液が溢れ出す。こぼれ落ちないように瓶の口を当てて流し込んでいく。やがて樹液の勢いは衰え、容器を一杯にするより先に流れは止んだ。毎度のことではあるが、樹液の採取は気持ちの良いものではない。数日もすれば結晶樹はその実と葉をすべて落とし、枯れてしまう。実を糧としていた草食獣は飢え死に、それを捕食していた肉食獣も姿を消すだろう。加護により払われていた虫が押し寄せ、周辺の草木を貪り尽くす。結晶樹の喪失は生態系の死を意味している。その引き金を引いたのは紛れもなく俺だ。
「終わったか」
背後から進捗を問われる。心なしか結晶樹はその輝きを鈍くしたように見える。依然として草木は大樹の恩恵を受け、ギラついた光を放っている。遠くから栗鼠がこちらを伺っているようだ。樹の実を狙っているのだろう。遠くで狼の遠吠えが聞こえた。
「あぁ、ばっちり終わったぜ。これで村の奴らも救われるだろうよ。」
熊のようにがっしりとした腕を組み仁王立ちで男がこちらを見ている。相変わらずの無表情ではあるがギラついた森を背に巨大な図体から無意識に放たれるこの威圧感には、旅を通じて多少慣れてきたもののやはり気圧されてしまう。
「おっさんさぁ、表情筋死んでんのか?笑った顔見たことねえぞ。」
思ったことを反射的に口にするとハグレは眉ひとつ動かさずに「そんなことはない」と腹の底に響く低い声で返事をした。言葉と表情が乖離している。
「そんなことあるだろうが。顔面微動だにしてねえじゃねえか。」
否定を告げるとおもむろにハグレは腕を解いて腰の獲物に手をかけた。やられる。怒るにしても手が早過ぎやしないか。そう思ってから気付いた。ハグレの声とは別の重低音が響いている。羽音だ。近づいてきている。身構えて腰を低くする。鼓膜を震わせる騒音が樹木の影の向こうで加速度的に大きくなっていく。
「油断するな!」
掻き消されそうなハグレの声を認識すると同時に姿を現したそれは大柄なハグレよりもさらに一回り大きな蜂─キラービー─だった。
鞘から剣を引き抜く金属の擦れる音と同時にハグレが地面を蹴り出した。ロングソードの柄を強く握り横に一閃、人喰い蜂に斬撃を加える。ガチリと鈍い音がした。甲殻に傷が入るが見たところ浅い。キラービーは動きを緩めることなく進行方向を変えて空へ飛び上がるやいなや、腹部の針をハグレへ向けて急降下する。しかし針がハグレを貫くことはなく、空を切った。上体を捻り横へ跳んだハグレは着地と共に剣を掲げて振り下ろす。体重の乗った一撃だと見てわかる。剣は頭部に直撃する形となったが、しかし蜂はよろけることもなく再び上空へ舞い上がった。
「キリがない!まだか!」
ハグレは焦る表情を見せないが、呼吸が荒くなっている。キラービーは安全圏から次の一手を窺っている。均衡はそう長く保たないだろう。俺は地面に右手をついた姿勢でそれを見ていた。そして目を閉じる。
「待たせた、もういいぜ!」
声を発すると同時に俺の右腕の血管が青く浮かび上がり発光する。目を刺すような輝き。光が血液に代わり体内を巡る感覚が這い上がってくる。結晶樹は根を介して周囲の植物とつながっている。そこに俺自らも一体となる。葉を揺らす風が触覚でわかる。指先を解くように樹木に絡まる蔦を緩めることができる。宙をグネグネと這い回る蔦が四方から蜂に飛びかかり絡みつくイメージを想起すると、それは現実のものとなった。頭部を、腹部を、そして喧しい翅を締め上げる。キラービーはもがきながらそのまま落下した。木々のざわめきと鼓動が聞こえる。ハグレが歩み寄り、ゆっくりと確実に狙いを定めると複眼に刃を突き立てた。キラービーはなおも6本の足でうねうねと宙を掻いていたが、しばらくしてその動きを止めた。不意にぽとりと結晶樹の実が落ちる。栗鼠が駆け寄り、それを奪っていく。草木が風に揺れてギラギラと光っている。何事もなかったかのように森は元の表情を取り戻した。




