カミュ「ペスト」はコロナ禍だから読むべきか?
カミュの「ペスト」を再読しています。「ペスト」は最近、よく売れたそうです。売れた理由は、ペストの蔓延する状況での人間の苦闘を描いた作品が、今の状況と似ているからだそうです。今の状況というのはコロナウイルスの蔓延を意味しています。
私は、こうした読み方には一文学愛好者として違和感を抱いていました。現代の優等生的な答えとしては「コロナ禍の今、カミュの『ペスト』を読むのは勉強になっていい!!」という事だと思いますが、私はひねくれ者なので、ひねくれ者としての結論も書いておきましょう。
まず、文学作品はそのように表面的な状況の類似によって読むべきものだと思いません。そのような読み方が正しいとすれば、コロナが去れば、「ペスト」を読む意味はなくなってしまいます。表面的な状況の類似にのみ注目するのなら、状況が去れば、その本を読む必要がなくなるのは必定です。文学作品とは果たしてそのようなものでしょうか。
そういう言い方をする人は結構います。「ドストエフスキーはキリスト教的な書物だから、キリスト教徒ではない我々は読むのは意味がない」とか。こうした通人の言い方が私は嫌いですが、こういう言い方はわかりやすいと言えばわかりやすいでしょう。それにしても今の世の中はわかりやすさを求めすぎだと思います。
現在のそうした風潮に違和感を持ちつつ「ペスト」を再読していると、まず最初の引用文が目に付きました。私はこの引用だけでも答えが出ているように思います。重要な所なので、全部引用します。
「ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったことである
ダニエル・デフォー」
(新潮文庫版 「ペスト」より)
コロナ禍だからこそ、「ペスト」を読むべきだと言う人は、「ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは」と言う部分を、「コロナ禍という監禁状態をペスト禍というそれによって表現することは(略)理にかなったことである」と読み替えるのかもしれません。もちろん、カミュはコロナを知りませんでしたが、そういう繋がりとして考えれば、古典小説も親しみやすく読めそうです。
しかし、そういう読み方であれば後半部分の「実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに」の意味がわからなくなります。それに、コロナとペストはあまりにも類似しているので、そもそも置き換える必要がなさそうです。
ネットで「ペスト」という作品を調べると、ペストの状況というのは、カミュ自身が経験したナチスドイツ下の状況について書いているという解釈が一般的なようです。確かに、そうなのかもしれません。
しかし、もしそうならば、何故カミュはナチスドイツの経験を、ナチスドイツの話として描かなかったのでしょうか? 例えば、コロナ禍の話を「実際の」コロナ禍の話として描くように? カミュはそのような描き方はしませんでした。彼は、間接的な描き方を用いました。
…だからこそ、「実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったこと」なのだと思います。実際に経験した事柄を、オランの町がペストに見舞われるという存在しない状況で描く(オランには実際にはペストは発生しなかった)。それは、存在したことを、存在しないあるものによって表現することです。
もう一歩踏み込みます。それでは、どうしてカミュはそんな事をしたのでしょうか? どうしてAという事柄を、Bという別の事柄で表現しなければならなかったのでしょうか? どうしてそんなに迂遠な事をする必要があったのでしょうか?
…おそらく、ここのあたりが、通俗小説と文学作品との分かれ目になってくると思います。また、平板な意味の取り方をする人がついていけなくなる箇所でしょう。カミュはじめ、優れた文学作品の文体というのが、大抵は通俗小説よりもわかりにくい、面倒なものになっているのもこの為です。そこでは事物の直接性ではなく、その奥にあるものが感知されているのです。
あまり好きではないですが、理屈で考えてみましょう。いわゆる普通の小説はAという事柄があれば、直接的にAというものを指さします。Aという事柄が描かれていれば、Aという以外には意味は無い。だから、わかりやすいし、同じAという状況を感覚的に理解できるのであれば、作品にすんなり入れます。
しかし、Aという状況を、別のBという状況で表すとどうでしょうか? そうなるとA=Bという定式が作品の奥に現れてきます。この時、AとBとの間に「=」であるものが存在します。AとBに通じるものが、作品の背後に現れます。それは何でしょうか? それはAとBから抽象されたものですが、同時に、AともBとも違うものです。何故違うかと言えば、AとかBとかいう具象性を失っているからです。
ここで現れているAとBを繋ぐものは何かと言えば、AとBとを貫くある本質です。そうした本質が事物の背後に現れてくる。だから、単純にAをAとして表す作品とは意味が違ってきます。表面的に現れてくる事柄の奥に抽象性が現れてくる。作品はそうした重層構造になってきます。
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今言った事は、あくまで理屈に過ぎません。この理屈は説明の為に用いただけで、「それではファンタジー作品はどうだ、SFはどうだ」と言われると、またこの理屈を拡大して考えていかないといけない。私は理屈は便宜的に使っているので、ここでは、文学作品は重層的になっているというイメージだけ持ってもらえればOKだと思います。
こうした理屈を用いたのには理由があります。それは最初に書いたような「コロナ禍だからこそ読むべき」という読み方に違和感を覚えた為です。この理屈であれば「A=A」という風に私は感じます。あるいは「ペストA=コロナA'」という感じでしょうか。いずれしろ、状況の類似性に着目しているので、作品の奥にあるものが掴みづらい。というか、そういうものがわからないからこそ、事物の表面性に着目して、文学作品をライトに分解しようとするのでしょう。
これは見方を変える事もできます。先にナチスドイツの話がありました。「カミュはナチスドイツの経験をペストに託して書いた」。これが本当だったとして、それでは「ペスト」という作品の意味は、結局は、ナチスドイツでの状況を間接的に描いただけなのでしょうか。
ある種の批評家はこうした見方をします。つまり、作品の背後に、作者の個人的体験や、実際にあった事柄を読み取り、作品の謎を解いた気になる。モデルがわかっていないキャラクターに、現実のモデルを発見する。そうすると、モデルの方が「答え」であって、キャラクターはそこから派生した幻影のように見えてくる。作品の謎を解こうとして、作品を置き去りにして、作者の体験や経験を絶対視する。作品の背後に、現実に存在したある事柄を発見し、それが答えだと思い込む。しかし、それならフィクションは何の為にあるのでしょうか?
コロナ禍だから「ペスト」を読むべきだ、「ペスト」から学ぶべきだ、と言うのであれば、最初に言ったように、表面的な事実の類似性が破れれば、もう「ペスト」を読む必要はありません。現実の状況はどんどんと変わっていきます。そうなると、絶えずその状況に接近した作品が、現実的なものとして身近に感じられますから、百年前や二百年前の作品はもう読む必要はない。
古典は必要ない、という人が「現在至上主義者」なのはそういう理由でしょう。それでは、刻々に継起している現実の状況というのははたして二度と起きないのでしょうか? 古びた作品を読む必要は全くなく、その時々の現実にあったベストセラーや、その時々の状況に即したランキングだけを注視していれば、それでいいのでしょうか?
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最後に結論を書きます。…と言っても、結論は、カミュの最初の引用で尽きているのではないかと思いますが。
文学作品は個別的な事実や人生を描きながらも、その奥にあるものを把握しようとします。またそこから、作品の具体的な現実全体に意味が付与されていきます。そうした重層構造が優れた文学作品にはあります。
「コロナ禍だから『ペスト』を読むと勉強になる」という視点を強調すると、コロナとかペストとかいった病の蔓延する状況でなくなれば、『ペスト』という作品は用済みになってしまいます。本を売りたい立場からすれば、「コロナ禍だから読むべき」と宣伝するのもやむを得ないかもしれませんが、それは結局、現代のリアルタイム至上主義に貢献する商品と同じ扱いになってしまいます。そうして文学というのは、そういうものに限っているわけではないでしょう。
それでは『ペスト』、あるいは『ペスト』をはじめとした古典文学作品はどのようにして読めばいいのでしょうか? 私は普通に読めばいいと思います。つまり、自分が人間であり、また人生が存在し、世界の中に生きているから、その全体像や、自分自身を知る為に古典を読めばいい。その為には、自分の頭を動かす必要もあります。
ペストそのものは様々なものの比喩と考えられます。コロナも同じで、人々はコロナが去れば自由で楽しい人生が戻ってくると考えているのかも知れませんが、コロナが去っても死は存在しています。人間は死という運命を持って、限界づけられた生を生きざるを得ない。ペストがなければ、コロナがなければ様々なものは自由だ、と考える事は可能です。しかしペストもコロナもなくても死は存在します。本質的に、何かが変わったわけではない。相対的な条件が変わっただけです。
文学作品を、表面的な状況の類似で読むのであれば、状況の些細な変化によって、文学作品は必要なくなります。必要とされるのはリアルタイムに刻々と「アップロード」されるニュースや論考、動画、音声だけになります。それは常に今を生きている我々にとってはぴったり寄り添ってくれる新鮮なものです。確かにそれは我々にとってありがたいものでしょう。
『ペスト』は売れましたが、そういうリアルタイム性に寄与するものとしてだけ消費されて終わるのではないかと私は危惧しています。おそらくこの事態は文学を再評価するきっかけにはならないでしょう。むしろ、文学作品の方がかえって今の我々を高く評価している、そういう視点を強調するもにしかならないでしょう。しかし、文学というのは本当にそういうものでしょうか。確定的に絶対視されている『今の我々』の価値観を揺さぶるものとして、文学はあるのではないでしょうか。
『ペスト』が間接的な描き方をされているのは、ウイルスが広がった現状でどうすべきかという事だけではなく、そうした具象的な現実を通じて、人間はどうあるべきかという形而上的な段階が含まれていると私は思います。だからこそ「他のある種のそれによって表現すること」は「理にかなっている」のです。今を生きている我々が全ての我々ではない、その先には何かがあるという直感によって文学は成り立っていると私は思います。だからコロナとペストを直接繋げて、リアルタイム性と関係づけ、その線のみで文学を評価する事に私は違和感を覚えます。