TENDERLY
資料を見ながらパソコンを打つ。
新しいアプリを紹介するための企画書作りに長谷川は集中していた。
時間は午後の5時。
なんとか今日中に完成しそうだ。
少し休憩するか。
冷めてしまったコーヒーを飲みながら、外を眺めた。
いつの間にか雨が降っていたようだ。
「雨か…」
細い雨の斜線が、外の景色を揺らしていた。
長谷川は、この景色を見る度に思い出す。
最後に会った日のことを。
そして、引き留められなかったことをずっと後悔していた。
今は何をしているんだろうか。
出てくる有紗の顔は、いつも笑顔。
それと、最後に泣いていたあの顔。
どちらも色あせず鮮明に、ずっと長谷川の心に映し出されている。
「有紗…」
呟いた直後に内線が鳴った。
ハッと我に返り、すぐ現実に戻る。
「はい」
「あの、お客様がお見えなんですけど」
人と会う約束はしていない。
それに時間ももう夕方だ。
「誰だ?」
「リアルコミュニケーションズの三ツ屋さんという方なんですけど」
聞いたことがある会社だ。
確かIT系の会社だった気がする。
営業かな…?
今の時代、飛び込みで営業をかけてくるのは珍しいし、結構勇気がいる。
暇ではないが、その勇気に免じて話くらいは聞いてあげようと思った。
「どこか空いてる部屋はある?」
「ルーム3が空いてます」
「じゃあそこに案内して」
内線を切り、残りのコーヒーを飲み干す。
そしてジャケットを羽織ってルーム3の部屋へ向かった。
ドアを開けると、三ツ屋という人物が椅子に座っていた。
長谷川より少し年上のようだ。
三ツ屋がすぐに立ち上がる。
「お忙しいのに突然すみません」
「いえ、少しなら」
そう答えたあと、三ツ屋が名刺を出してきたので、長谷川も名刺を渡す。
受け取った名刺を見ると、「代表取締役社長」と書かれていた。
社長自ら営業?しかもうちみたいな小さい会社に?
少し怪訝な顔をしてしまったかもしれない。
それに気づいた三ツ屋が言ってきた。
「今日伺ったのは、仕事の話ではありません。その名刺は私がどんな人物なのか証明するためにお渡ししました。もちろんこれがご縁で仕事につながればうれしい限りですが」
意味がわからない。
この男は何を言っているんだ?
「どういうことでしょうか?」
「鈴木有紗さんのことでお話があって」
その名前を聞いて、鼓動が一気に大きくなり、長谷川は三ツ屋の名刺を落としてしまった。
そのまま三ツ屋の両肩を掴み、大きな声で聞いた。
「有紗のこと知ってるんですか?有紗はどこにいるんですか?」
「長谷川さん、落ち着いてください。ちゃんと順に説明しますから」
自分が取り乱していたことに気づき、慌てて手を離す。
「す、すいません。まさか有紗の話だなんて思わなかったので」
「とりあえず座って話しましょう」と促され、長谷川は三ツ屋の対面に座った。
「まず、こっちからお聞きしてもいいですか?」
「もちろんです」
有紗のことを話してもらえるなら、こっちは何でも話す。
まず、有紗との出会いから話し、そのあと自分たちは惹かれあい、
気がついたら付き合っていた。
半同棲もして、近いうちに結婚することも考えていた、と。
「それなのに、突然音信不通になったんです。何度電話しても、家に行っても。それでも俺には有紗しかいなかった。だから、最後にダメもとでもう一度だけ家に行ったら、濡れながら歩いている有紗に会えた。けど、有紗は別れるの一点張りで…俺は有紗のことを手放してしまったんです。なんで手放してしまったのか…それから、しつこいかもしれないけど、もう一度だけ会ってちゃんと話をしようと思ったのに、電話は解約されていて、家も引っ越していました。そうなる前につなぎとめておけなかったことを、今でもずっと後悔しています」
「話してくれて、ありがとうございます。有紗さんが元男性ということも知っていたんですね」
「そんなの関係ないですよ。有紗は有紗ですから」
その言葉を聞いたあと、三ツ屋が一息ついてから話し始める。
「では、今度はわたしの番です。有紗さんは、先月まで私の会社で秘書をしていました。私に近づくのが目的で」
「三ツ屋さんに?」
なんのために?
「私の妻に復讐するためです」
それから、どういうことがあったのか、三ツ屋は細かく話してくれた。
有紗がそんな闇を抱えていたなんて、長谷川はまったく気づかなかった。
そして、それを実行してしまった。
なんて愚かなことをしたんだろう。
しかし、話を聞いても有紗に対する気持ちは変わらないし、責めることもできない。
「有紗さんを軽蔑しましたか?」
「いえ、俺があのとき意地でも有紗と別れなければ、こんなことにはならなかったんです。俺のせいで…申し訳ありません」
それを聞いた三ツ屋が少し笑った。
逆に笑った三ツ屋の顔を見た長谷川が少し眉間にしわを寄せた。
「笑ったりしてすいません、長谷川さんも私と同じだなって思ったので」
「どういうことですか?」
「私も、有紗さんの誘惑に負けなければ、こんなことにならなかった。復讐計画は失敗した。そう思って自分を責めました。だからもう彼女を恨んではいません。妻の真子もです。しかも、彼女は私たち夫婦に別れないでって言ったんです。自分はどんな罰でも受けるからって」
有紗らしいな、と思った。
「本当は無意味だってことを彼女は理解していました。それなのに、その無意味な復讐のために大事な親友と最愛の人を失ったと」
長谷川の目が見開く。
「有紗が…そう言ったんですか?」
「はい、ハッキリと言いました」
有紗もずっと、俺のことを想ってくれていたのか…
「さっきも言いましたけど、私たち夫婦はもう有紗さんを恨んでも憎んでもいません。特に妻と有紗さんは、これからは友達として仲良くしていくそうです。そのことには私も賛成しています。彼女にも幸せになってほしいですから。そう思って最愛の人のところに戻るように話しましたが…頑固なんですよね。わたしにそんな権利はないって言い張るんです。だったら相手に迎えにいってもらおうと思いました。しかし、その最愛の人が誰だかわからない」
そうだ、この人はどうやって俺にたどり着いたんだ?
直接問いただすと、それも三ツ屋は答えてくれた。
「妻の真子が、有紗さんが以前勤めていた会社を知っていたので、連絡をしてみました。そこで、有紗さんが言っていた親友に会えました。相原聖菜さん、ご存知ですよね?」
知っているので頷く。
そして、ここから先は聞かなくてもわかる。
「彼女から俺のことを聞いたんですね」
「その通りです」
そういって、三ツ屋はメモを渡してきた。
「ここが今、有紗さんの住んでいる住所です」
「ありがとうございます。今から有紗のことを迎えにいきます!」
仕事なんて後まわしだ。
今は有紗のことしか頭にない。
飛び出そうとしたところで、三ツ屋が呼び止める。
「ひとつお願いをしてもいいですか?聖菜さんが連絡してくれれば許すと言っていました。それを伝えてもらえますか?」
「わかりました。必ず伝えます」
そういって、今度こそ部屋を飛び出した。
一昨日から新しい仕事を始めた。
普通の事務職だ。
定時に仕事が終わったので、会社をあとにする。
電車を乗り継ぎ、雨が降っているので傘をさしてトボトボと歩く。
その途中で、一つの傘をさしながら歩いているカップルにすれ違った。
幸せそうでいいな…本当にわたしなんかが幸せになる権利あるのかな。
和解しても、やっぱり自分を責めてしまう。
今住んでいるワンルームマンションが見えてきた。
すると、入り口で傘もささずに濡れて立っている人影があった。
なんか気味が悪いな。けど、入り口通らなきゃ家に入れないし…
しかたない、なるべく顔を合わせないようにして入ろう。
傘で顔を隠しながらマンションの入り口まで進む。
自分の顔を隠しているので、相手の顔も見えない。
ところが。
「有紗!」
突然名前を呼ばれた。
まだ顔は見えない。
けど、この声だけで誰かわかる。
傘を下ろすと、そこにはずぶ濡れになっている最愛の人の顔があった。
「なんで…ここにいるの?」
質問に答えず、力強く抱きしめてきた。
「ずっと…ずっと会いたかった!1日も有紗のことを忘れる日なんてなかった。もう俺は何があってもこの手を離さない!腕がちぎれようが、今度こそ絶対に離さない!」
こうしてほしかった。
ずっと抱きしめてもらいたかった。
有紗の凍えかけた心を長谷川のぬくもりが溶かしていき、
抑え込んでいた感情が一気にあふれ出す。
腕をまわし、力強く抱きついた。
「わたしもこうしたかった!ずっとずっと抱きしめてもらいたかった!」
とめどなく涙が溢れる。
それでも構わなかった。
「有紗、好きだ!愛してる」
「わたしも…愛してる」
わたしは、わたし自身も幸せになる道を選んだ。
そして、このときやっと気づいた。
有紗が、真子たちが幸せになることが嬉しいように、
真子たちも有紗が幸せなのが嬉しいことを。
「2人とも雨で濡れて…あの日と同じだね」
「そうだな。今がやっとあの日の続きだ」
止まっていた時間が再び動き始めた有紗と長谷川は、
今まで離れていた時間を埋めるように、
温もりを感じながら抱き合っていた。




