聖菜の過去2
「もしもし」
「よう、今家?」
「そうだけど」
「今から軽く飲まない?あ、もちろん俺しかいないよ」
熊野がいないというのを強調していた。
彼ならいいかな…
「わかった。場所は?」
支度をして待ち合わせ場所に行くと、彼は軽く手を挙げていた。
「悪いな、こんな時間に」
「ううん、ムシャクシャしてたし誰かに愚痴りたかったから」
その言葉を聞いて啓介は笑っていた。
「まあ、その辺の話は飲みながら聞くから」
入ったのは普通の居酒屋。
いや、普通の居酒屋よりもリーズナブルなお店かもしれない。
あまりこういうお店には行かないが、今日は飲めて話を聞いてもらえれば
どこでもよかった。
もうすぐ夜の11時だというのに、店内は賑わっていて、
どちらかというと年齢層が高い感じの客層だが、2人とも気にせず席に着いた。
「とりあえず生を2つ」
啓介は、聖菜に確認もせず注文した。
ただ、聖菜は飲めればなんでもよかったので文句は言わない。
それよりも、気になることを先に聞くほうが大事だ。
「あのあとどうなったの?」
「大変だったよ、誰が悪いとか責任の押し付け合いになって。相原が会社辞めたらどうするんだとか言い出す人までいたしさ。さすがにそれはないだろうと思ったけど」
「別にそんなことで辞めないけど…なんか気まずいな」
「そうだな…でも気にすることないんじゃないか?いつも通りおはようございますって挨拶して仕事してりゃ誰も何も言ってこないだろ」
そこまで言ったところで生ビールのジョッキが2つ運ばれてきて、
乾杯をしてから会話を続けた。
「そうだけどさ…陰でコソコソ言われそうだし」
「そんなのすぐに言わなくなるって。それよりも気まずいのは熊野だろ」
実はそこが一番気になっていたところだった。
今さら躊躇ったり隠しても意味がないので堂々と聞いた。
「なんか言ってた?」
「んー、言ってたよ。聞きたい?」
「もちろん!」
啓介は首を少しかしげて考えていた。
早く聞きたいので聖菜は前のめりになると、
「わかった」と答えてから話を続ける。
「その前に聞くけど、相原は熊野と今後どうするの?」
そんなの答えは決まってるので、わたしは即答した。
「別れるよ」
「あいつが嫌だって言ったら?」
「関係ないよ。約束を守れないような人、ハッキリ言って嫌いだし。だって自分から内緒って言い出したんだよ。それなのに自分からみんなに言いふらして。まさかあれだけの人が知ってると思わなかった。最低だよ、顔も見たくない」
思っていることを全部口に出してちょっとだけスッキリした。
「熊野は調子に乗ってたんだろうな。こういう言い方をすると相原は嫌がるかもしれないけど、先輩たちも含めて男たちは社内じゃ相原が一番かわいいっていう話になってるんだよ」
「は?何それ?」
聖菜は自分のことをかわいいなどと思っていないので、
そんな話になってるのが信じられなかった。
「もっとかわいい人とかたくさんいるのに。なんでわたしなの?」
「そんなの知らねえよ。みんな言ってるんだから。」
なんか…
「そういうの迷惑」
「じゃあ逆に聞くけどさ、女性たちの間では誰がかっこいい、とかそういう話はないわけ?」
ないわけではないので、言葉に詰まってしまった。
もちろん女性同士でも、誰がカッコいい、誰が素敵という話はする。
ただ、女性の場合は三者三様で、好みがきっと男性よりも分かれるだろう。
現に熊野の顔はきれいにひげがカットされていて、
ひげの似合う人が聖菜のタイプだったが、
同期の女の子はひげのある人は嫌いと言っていた。
筋肉質な人がいいという人もいれば、細い人がいいという人もいる。
それと比例して、必ず性格も見ているので、余計にタイプが異なる。
男性のように顔だけで判断することはあまりない。
しかし、今回の聖菜は顔だけで判断してしまったので、
やはりそこは自分にも落ち度があると思っていた。
「まあいいや」と聖菜の回答を待たずに啓介が再び口を開いた。
「とにかく相原はそういう存在なんだよ。で、その相原と付き合っている熊野は有頂天になるわけだ。相原、俺の彼女なんですよ!的な感じ」
そういうのは内に秘めてるからカッコいいのであって、自分から言うなんて単なる子供だ。
根本的に熊野とは価値観が違うんだなと改めて気づいた。
ため息交じりに聖菜が言った。
「それでいろんな人にペラペラと言ったんだ?」
「そこまではわかんないけど、とりあえず何人かに言って、そこから広まっていったと思う。最初は俺だけだと思っていたのに、2か月くらい前だったかな、先輩の香取さんに熊野と相原が付き合ってるらしいぜって言われて、あーあって思ったよ。熊野と香取さんって部署が違うからそこまで接点ないはずなのに、そんな人まで知ってたから」
2か月前は驚愕だ。
そんな前からいろんな人に言いふらしていたのか。
今度はハッキリと大きなため息をついた。
「知られてないと思って付き合ってたのが恥ずかしいんだけど」
「まあまあ」と啓介がなだめるが、聖菜の心の中は失望感しかない。
一度ビールをグビグビと飲み、半分近く減ったところで本題に入った。
「で、あのあとの話を聞かせて」
「そうだな、多分これを聞いたら相原は怒ると思うけど」
それなら大丈夫。
「もう怒ってるから」
これを聞いて啓介は苦笑いをしながら話し始めた。
「みんなにどうすんだよって言われて、よくケンカするから大丈夫です。明日にはケロッとしてますから。あはははって」
カチンときた。
「は?ケンカなんてほとんどしてないし、ケロッとなんてするはずないから。バカじゃないの、こっちがどれだけ呆れてるかわかってないんだ。どれだけあの場所にいたくなかったか理解してないんだ。本当に最低!大体さ、みんなに知られるということがどれだけ恥ずかしいことかわかってないんだよ。知られれば仕事の話をしているだけでも心の中じゃいちゃついてるとか思われたりするし、みんなで飲み会とかあっても隣に座らせようとかまわりに変な気を使わせたりするんだよ。それくらいわかんないのかな?恋愛って自己満足じゃないんだよ、ちゃんと相手のことを気遣えないなんて中学生じゃないんだからさ」
プツンとなった聖菜は一気に捲し立て、残ったビールを飲みほしてから続けた。
「そりゃ深く考えないで付き合ったわたしも悪いけど、こんなことになるなんて思わないじゃない?大体ね、付き合ってるときだってそこまで楽しくはなかったんだよ。積極的にいろんなところに連れていってくれるわけでもないし、思ったよりも行動範囲狭かったし、なんか違うなって思い始めたタイミングで今回のだったんだから」
そこまで言ったところで聖菜のスマホが鳴りだした。
相手は熊野からだった。
無視をしようとしたら啓介が言ってきた。
「出なよ」
「嫌だよ、話したくないもん」
「いや、出ろって。で終わらせろよ。思ってる事ぶちまけて別れるって。そうすればスッキリするし職場でも堂々とできるだろ。もう別れたのでこれに関しては聞かないでくださいって。そうやって機敏な態度で言われれば誰も何も言えなくなるよ。まあ相原が熊野に未練があるなら別だけど」
未練なんてあるはずがない。
今では口もききたくないくらい嫌いな存在。
しかし、啓介の言うことも一理あった。
今日終わらせれば、明日の日曜はいくらか気持ちよく過ごせるだろうし、
月曜からの仕事も嫌なのは最初だけ。
意を決して電話を出た。
『やっと出たか!心配したんだぞ』
自分で心配かけるようなことをしておいてよく言う。
なにから言おうと考えていたら熊野が言葉を続けてきた。
『その…あれだよ、ちょっと酒も入ってて調子に乗ったところもあったけど、これで晴れて公認になったんだし、これからはもっと気軽にやっていけるな』
どこまでもおめでたい人だ。本当に会話すらしたくない。
ゴメンすら言えないのか、まったく自分は悪くないと思っているのか。
呆れながら聖菜は話し始めた。
『気軽になんてやっていかないから。悪いけど別れる。ううん、悪くないか、悪いのはそっちだし』
『おいおい、冗談だろ。せっかくみんなに知ってもらったのに、これで別れたら俺の立場が』
『あなたの立場なんて知りません。それに今日のことがある前からみんな知ってたんでしょ、誰かさんが内緒って言っておきながらベラベラと話してたんだから』
『それはその…』
熊野の言葉が詰まった。
それでも聖菜は気にせず話を続けた。
『あと言っておくけど、わたしはみんなに知られたくなかった。こんな人が彼氏だという残念な事実を』
聖菜の声だけを聞いていた啓介が笑っていた。
『こんな人ってどういう意味だよ!俺たちちゃんと付き合ってただろ』
『それがそもそも間違いだった。なんとなく付き合ったけど、楽しいと思ったことほとんどなかったし、あなたは常に自分を最優先。わたしのことなんて全然考えてくれなかった』
『そんなことないだろ、俺はちゃんと聖菜のことを』
『じゃあ聞くけど、わたしの何を考えた?』
『それは…』
熊野の言葉が続かない。
『ほら、考えてない』
『か、考えたよ!聖菜が楽しんでくれるようなところにデート行ったり、おいしいご飯を食べたり…』
『一回だけね。付き合い始めた頃に行った遊園地。あとは近場の映画館に行ったりしたくらい。ご飯だっておいしいところと言いながら全部近場だったよね。何食べたい?って聞かれて、わたしがパスタって答えると最寄駅から探す』
『それは近いほうが移動が楽で聖菜も疲れないと思ったから』
『違う、近ければすぐわたしの家に帰れるから。なんですぐに帰りたいかも知ってるよ。エッチしたいから』
『そ、そんなことない!それが目的じゃなくて、ゆっくりできたほうがいいかなって…』
『そんな言い訳通じないよ。現にここ最近はうちに泊まりにくるだけ。泊まればエッチできるから。気づいてなかったと思う?それでもね、わたしは我慢したよ、彼氏が望んでることだからって。一方的なあなたの要望に応えました。けど、それが続けば続くほどわたしの心は離れていった。まあ、元々そんなくっついてもいないけど』
聖菜は極めて淡々とした口調で熊野を責めた。
口撃は止まらない。
『そんな冷めきった状況で今日の出来事。なんでこんな人と付き合ったんだろうって後悔しかないよ。「僕たち付き合ってまーす」。バッカじゃないの。内緒になんてする気なかったんでしょ。付き合って1か月もしないうちに鈴木くんに話してたし、きっと同じタイミングでいろんな人にも話してたんでしょ。内緒にする気がないなら最初から言わなければいいのに』
『いや、俺だって最初は本当に内緒にしようと思ったんだよ!けど社内のみんなが聖菜のことかわいいって言うから…』
『ばらして優越感に浸りたかった?そういうの自己満足っていうんだよ』
熊野が黙り込んでしまった。
もうこれ以上話すのは本当に時間の無駄だ。
さっさと終わりにしよう。
『基本的に価値観が合わない。だから別れて。金輪際連絡もしてこないで。社内で会っても仕事の用以外は話しかけないで。もしこれを破ったら上司に相談するから。迷惑で困ってるって』
『ま、待てって…一方的すぎるだ』
言いかけている最中で通話を切った。
「ふー」っと息を吐いてから啓介の顔を見た。
その啓介はニヤリとしながら言ってきた。
「満足したか?」
「それなりに…ね」
「何が足りなかった?」
「自分への不甲斐なさ…かな。まだ学生気分が抜けきってなくて、軽はずみで同僚と付き合って…バカだよね、わたし」
啓介も残っていたビールを飲みほし、ジョッキをテーブルにドンと置いた。
「偉そうなこと言えるわけじゃないけど、そういう失敗も大事なんじゃない?失敗しないと気づかないこともあるだろうし。今回の件でいえば相原が自分の不甲斐なさに気づけた。もう同じ過ちはしないだろ」
聖菜はふふっと笑った。
鈴木くんって思った以上に大人なんだな。
それに心にゆとりもある。
確か大学の頃から付き合っている彼女がいるんだっけ。
そういうのも関係してるのかも。
「そうだね、もうこんなバカなことはしないよ」
「だな、次は社外で探したほうがいいぞ」
聖菜は横に首を振った。
「しばらくはいい。ちゃんと見極めて、本当にこの人なら大丈夫って想える人が現れるまでは」
「早く見つかるといいな」
「別に急いでないからいいよ。急いだって急がなくたって現れるときは現れるんだし。それまでは自分磨きでもしようかな」
「いいなそれ、思いっきり自分を磨いて最高の男と出会えよ」
そういって啓介は微笑んだ。
いい表情してるな、やっぱり鈴木くんに話して正解だった。
あいつと別れられたし、気持ちは晴れたし、前向きになれた。
このとき、聖菜の中で啓介は頼れる友達のような感覚に変わっていた。
微笑み返すと啓介が聞いてきた。
「いい顔になったな」
「鈴木くんのおかげだよ。ありがとう、自分磨きを頑張るよ」
聖菜の自分磨きはこのときからスタートし、美意識がどんどん高くなっていって今に至る。
その間、残念ながら信用できるような男性には巡り合えていない。
なお、出社してから美穂に「土曜はごめんね」と謝られ、
まわりが聞き耳を立てているのがわかったので、少し大きめな声で言った。
「気にしてないから大丈夫です。それに別れましたから。なのであの人の話はもうしないでください」
効果は抜群だった。
社内中に瞬く間に広まり、誰も熊野とのことを聞いてこなかった。
その熊野も約束を守り、社内ですれ違っても話しかけてこなかった。
これは後から聞いた話だが、実はあのあと啓介が念を押すように言ったらしい。
「どう考えてもお前が悪い。だから素直に諦めろ。もし諦めないで相原に付きまとったら社内で問題になるし、ヘタしたらストーカーで訴えられるからな」
啓介にお礼を言おうと思ったが、本人は何事もなかったかのように平然としていたので、
聖菜もあえて言わないことにした。
その後の熊野は自分で言いふらして別れたことが気まずかったのか、
入社して1年も経たないうちに退職した。
自業自得だったのでどうも思わないが、
今後会うこともないというのは、気持ち的に嬉しかった。
それからは平穏な日々。
啓介に対しては、以前と変わらず友達のような感覚でいたが、
異性なのにやたら話していると変な噂がたったら面倒だし、彼女もいるので
そこまで会話をすることはなく、すれ違ったときにちょっと会話をする程度。
唯一いろいろと話せた同期会も年数がたつにつれ減っていき、
気がつけば完全になくなっていた。
啓介とは部署も違うので、ほとんど会話をすることもなくなってしまったのが
少し残念だった。
だから啓介が病気で女になり、同じ部署になったときは正直ビックリしたし、
理由はどうあれ、女としての生活について自分を頼ってくれたのが何よりも嬉しかった。
だから可能な限り協力したし、その努力があって啓介は見事有紗になり、
大事な女友達になった。
その有紗が、今は男の隣で優しく微笑んでいる。
幸せな女性そのものの表情で。。
本当に好きだ、というのがひしひしと伝わってくる。
長谷川が覗き込むように少し顔を近づけてきてハッとなった。
「大丈夫?」
「あ、いえ…」
「次に何を言おうか考えてた、ってところかな。俺が言いたいことはいったから、あとは何でも聞いて」
長谷川は相変わらず堂々としている。
この態度から偽りを感じることはできなかった。
ここまで自信に満ち溢れてると攻め手がない。
答えないでいると、先に長谷川が口を開く。
「何もないって解釈でいいのかな?ということは、信じてもらえたってことだよね」
「100%は…信じてません。やっぱりわたしには運命とか惹かれあうというのは理解できないので。ただ、遊びとかじゃない…というのは信じてみます。ひとまずだけど」
それを聞いて、長谷川は「ふー」っと息を吐いた。
「ああよかった。有紗の大事な友達だからちゃんと信じてもらいたかったんだよね」
一気にくだけた表情になり、ちょっと驚いた。
こういう感じにもなるんだ、ずっと大人っぽく堂々としているのかと思った。
長谷川の人間らしさを見て、思わずクスっと笑ってしまう。
「ちょっと、人の彼氏を笑わないでよ」
そう言ってから有紗も笑い、長谷川も一緒に笑っていた。
なんか…この2人お似合いかも。
そう思ったら、心配していたのがバカらしくなっていた。
「あーあ、心配して損しちゃった」
「だから言ったでしょ、英明は大丈夫だって。でも…」
有紗は急に真顔になる。
「心配してくれてありがとう」
「どういたしまして」
聖菜は笑みを浮かべて返した。
そして視線を長谷川に向ける。
「長谷川さん、有紗ちゃんのこと悲しませたら許しませんからね」
念を押すと「わかってる」と力強く答えていた。




