第二十話 目覚めた最古の悪魔 その一
お疲れ様です。
本日の前半部分の投稿になります。
粘度の高い液体が広がる沼の表面で大きな気泡が爆ぜると濃い紫色の有毒な空気が大気中に霧散される。
それは風に漂い周囲一帯へと拡散されその有毒の空気を吸った生物のなれの果てが広大な沼地の周囲に築かれていた。
夥しい数の骸に囲まれた死の沼。
空高い位置からでもそれは容易に確認出来、骸躯の沼は生物が存在する事さえも叶わぬ絶死の一帯と化していた。
骸躯の沼の遥か上空では風に乗って地上を見下ろして旋回を続けている一羽の大きな鷲が確認出来る。
「……」
彼は何を言う事も無く只々己の任務を遂行する為に鋭い眼で地上を見下ろしていた。
良く晴れた空の下。
惨たらしい屍がそこかしこに転がる絶死の一帯は自分の死を容易く想像させてしまう程に不気味映る。
己の直ぐ後ろに死神が居て虎視眈々と自分の命を狙っているのではないのか??
魂を刈り取る巨大な鎌が己の首に当てられ、鉄特有のヒヤリとした冷たい感触を最後に自分もあの無数の骸達と肩を並べて横たわるのではないのか……。
決して有り得ない妄想を容易に駆り立ててしまう不気味な光景を見下ろしていると骸躯の沼の直上に何の前触れもなく、突如として巨大な漆黒の魔法陣が浮かび上がった。
「ッ!?」
刻一刻と漆黒の魔法陣の直径が広がり、それは広大な沼を覆い尽くす程に膨れ上がってしまう。
漆黒の魔法陣から桁外れの魔力が迸り、非情な魔力の渦が高高度から監視を続けている彼の腹の奥を貫き地から天へ向かって勢い良く駆け抜けて行くと………。
「「「グゥゥオオオオオオ――――ッ!!!!」」」
この世の者とは思えぬ悪魔の叫び声が天に轟いた。
「う、嘘だろ……。あ、あんな生命体が存在するなんて信じられねぇ!!」
旋回を続けていた鷲は絶望に打ちひしがれた声を上げると西へ向かって驚くべき速さで飛翔を開始した。
それはまるで己に襲い掛かる死から逃れたいが為にも見える。
「「「グゥゥ……」」」
だが、彼等は決して死神から逃れる事は出来ぬ運命なのだ。
これから始まる生命の存亡を賭けた戦いの序章を彩る雷鳴が轟くと最悪の悪魔を刹那に照らす。
形容し難い動きを見せる長き首、巨躯を支える太い胴体、そして複数の頭。
骸が広がる漆黒の大地に映し出された影は誰しもが認めるであろうこの世の理を越えた生命体だ。
そして、数百年の時を経て地上に生まれ落ちた最悪の悪魔は空を舞う鷲の軌跡を追う様に西へ向かって進行を開始したのだった。
◇
新婚生活二週間目を迎える新妻の如く浮かれた気分で調理場の前に立つと自分の意思とは無関係に、単調だがどこか味わい深い鼻歌が零れてしまう。
「ふっふふ――んっ」
素敵な音を軽やかに奏でて腰を捻り、無意味な動作を行いつつ本日の夕食の主役に味付けを施す。
先ずはぁ、包丁の背でお肉を叩いて食べ易い様に柔らかくしてぇ。それからぁ塩で下味を付けますっ。
中々に立派な一枚肉に下処理を施し終えると額に浮かぶ矮小な汗粒を拭い取った。
「ふぅ――……。しっかし、遅いな」
地上で暮らす者達に眩い笑みを振り撒いていた太陽がふわぁぁっと大きな欠伸を放つ夕刻。
いつもこの時間帯になると腹を空かせた白頭鷲が帰って来てお母さんに飯を強請るのだが……。
今日はちょいと遅れているらしい。お家のお口ちゃんが微塵も開く気配を見せませんからね。
「早く帰って来ないかな。なんて言ったって今日は御馳走ですからね!!」
白頭鷲の好物の一つであるお肉が本日の主役だ。
この肉は鷲の里から西へ向かった先にある森の中で入手出来た。何故それを知っているのかというと……。
至極簡単な話。
狩人と共に本日の主役を狩って来たからです。
朝飯を食い終えて里の仕事に出掛けようとしたのだが。
『ハンナ、ダン。居る??』
里の戦士であるシェファが扉を叩かず、いきなり扉を開けて入って来ると。
『ハンナ、今日の稽古はいつも通り。ダン、お父さんと一緒に狩りに行って』
目を丸めて驚く俺達を他所に、捲し立てる様に己の用件を伝え終え。せめてノックをしなさいと咎める前に素早く立ち去ってしまった。
何が何だか分からぬ内に用件を押し付けられ、本来であればプンスカと怒る場面なのだが……。
先日の温泉の一件もあってか。彼女には頭が上がらなくなってしまっているのです。
彼女の両親が暮らす住所をハンナから聞き出すと無理矢理押し付けられた仕事の依頼をこなす為に妙に重い足取りで向った。
『おはようございま――す。シェファさんからの依頼で同行するように頼まれた者ですよ――』
大鷲の彼女の両親が住まう家の戸を優しく叩いて来訪を伝えると、中々にゴツイ強面風の男性が喧しく戸を開いて現れた。
『おぉ!! お前が今、里で噂になっているダンか!!』
俺の耳は正常に動作しているのでも――ちょっと静かにしても良いのですよ?? と。突っ込みたくなる台詞をグっと堪え、はにかんだ顔で取り敢えずの肯定を伝える為に一つ頷いてあげる。
『では早速向かうぞ!! ついて来い!!』
『あ、いや。ついて来いと言われましても俺は一体何をすればいいのやら……』
俺よりも大分が背高く、大変ガタイの良い猟師に腕を引かれて里の通りを爆進。
里の出口から外に出るとほぼ誘拐に近い形で西の森へと向かい、この雄鹿を捕らえたのだ。
簡単に説明すれば朝起きて猟師と共に鹿を狩って来たで済むのですが……。
「はぁ――……。腰が痛ぇ……」
もう少し細かく話すと俺が腰を痛めている理由が分かると思う。
彼と共に静かな森へ足を踏み入れ、人っ子一人見当たらない大自然の中を物珍し気に見回していると。
『よしっ!! じゃあこのまま真っ直ぐ歩いて行け』
シェファの父親が太い腕を上げてある方向を指差した。
『はい?? 狩りに来たのだから目立つ行動は駄目なんでしょ??』
俺がそう問うも。
『安心しろ。俺を信じて歩いて行けばいいんだ』
十人中八人が絶対怪しむであろう台詞を吐く彼に従い、渋々と深い森の中を歩き始めた。
それから十分程度経過した頃だろうか。
『……ッ』
『あ、ど、どうも……』
生まれ故郷の大陸の鹿よりも二回り程デカイ雄鹿とバッチリ出会ってしまった。
野生生物は俺みたいな人間を見ると驚いて逃げていくのが常識なのですが……。この大陸で俺の常識は通用しない。
『ギュェェエエ――――ッ!!』
『ちょ、ちょっと!! 止めて!! 角を刺そうとしないでっ!!!!』
雄鹿が耳をつんざく雄叫びを放つと頭の天辺に生える鋭利な角の先端を突き刺そうとして此方に向かって突進して来やがった。
目玉をひん剥いて驚く俺に容赦無く襲い来る殺傷能力の高い角。
逞しい四本の足から繰り出される突進力を加味すれば恐らく鋭い角は肉を容易く切り裂き、体内の臓物を穿ち、直撃すれば夥しい量の出血を伴って絶命に至るのでしょう。
『止めてぇぇええ――!!』
数時間前までは大変平和な環境下で朝飯を食べていたのに……。何で俺がこんな目に遭わなきゃいけないのだと、目に涙を浮かべて森の中を走り回っていると。
『グッ!?!?』
どこからともなく飛来した矢が雄鹿の眉間をぶち抜いた。
『流石俺の娘が気に入った男だな!! 助かったよ!!』
どこからともなく現れた彼が満面の笑みを浮かべて鹿に突き刺さった矢を抜く。
『えっと……。この無駄にデカイ鹿は何で俺を見付けても逃げ出さなかったのですか??』
鹿の血抜き作業をしている彼の大きな背に問う。
『簡単な話さ。コイツは魔物の魔力の感知能力に長けており、魔物が縄張りに侵入すると逃げてしまう。しかし、魔力を持たない生物が侵入すると己の縄張りから追い出そうとして躍起になるのさ』
ははぁん……。とどのつまり、俺は憐れな生贄として捧げられたのだ。
『海老で鯛を釣る』 その海老役を見事に演じたって訳ね。
『じゃ、じゃあせめて危険だと一言二言伝えても良かったのでは!?』
『里の戦士の訓練に参加しているんだから大丈夫だと思ったんだよ!! わははは!!!!』
生死の境を彷徨った俺としては全然笑えないんですけども……。
陽性な笑いを放つ彼に対し、俺はアハハと乾いて味気の無い愛想笑いを浮かべていた。
獲物を入手した後、また共に狩りに行こうと強く誘う彼の誘いをやんわりと断って今に至るのですよっと。
死にそうにまでなって入手した所為か、それともこの肉自体が良質なのか。
「すっげぇ美味そうだよな……」
赤みの肉に良い感じで脂が乗り肉厚な断面が食欲を増進させてしまう。
単純に男らしく焼いて食うのか、それともひと手間掛けて汁物にしてやろうか。
実に悩ましいな。
世の主婦がすべからく抱いている今晩の献立に悩んでいると。
『お、おい!! 聞いたかよ!?』
『あぁ!! いよいよらしいぜ!!』
「んっ?? 妙に騒がしいな」
里の通りから数名のけたたましい足音と一日の終わりに相応しくない叫び声が聞こえて来た。
何かあったのかな??
大きな皿の上で静かに横たわる鹿のお肉から一旦離れ、通りの様子を見に行こうとして家の扉に近付くと。
「ダン!! 聞け!!」
「うぉがっ!?!?」
何の前触れもなく扉が勢い良く開き、大変硬い扉と熱い接吻を交わしてしまった。
「こ、この野郎……。もう少し静かに扉を開けろよな!!」
猛烈に痛む額を抑え、目に大粒の涙を浮かべながら叫んでやる。
「そんな事はどうでもいい!! ついに……。奴が目覚めたのだ!!!!」
「奴……?? そ、それってまさか」
「あぁ……。三つ首が目覚めた!!」
真剣そのものの彼の表情を捉えると心に驚愕と恐怖、そして僅かばかりの好奇心が湧いて額の痛みが途端に消失してしまった。
ついにこの時が来たのか……。
「ハンナ、無理を押し通して頼みたい。お前達が三つ首を倒しに向かうのは分かっているが、俺も連れて行ってくれないか?? 勿論戦闘の邪魔はしない。遠い場所で見に徹する事は約束するよ」
相棒とその仲間達が繰り広げるであろう三つ首との死闘を是が非でもこの目に焼き付けたい。
それと何より……。
万が一、ここでの別れが最後の別れにならない為にも彼等と共に行動をしたいのだ。
「命の保証はないぞ?? 貴様が続けたがっている冒険は二度と出来ぬかも知れない。それでも私について来るのか??」
友人に対する真心、友を想う温かな気持ち。
柔らかい感情が一切合切消失した冷酷な戦士の表情で俺に問う。
「あぁ、勿論だ。ハンナが里を愛している様に俺もこの里を守りたいと考えているんだ。皆の幸せを守る為に俺にも何か出来る事があるかも知れないし、それと何より。何もせずここで指を咥えて待っているのは性に合わない。頼む……、ハンナ。俺を連れて行ってくれ」
ハンナの心意気に応える為、こちらも陽性な感情を一切排除した声色で鋭い瞳を浮かべている彼の問いに答えた。
「――――。ふっ、自ら死地へ飛び込もうとする馬鹿者か。良いだろう、既に賢鳥会の面々に貴様を帯同する許可を貰っているからな。連れて行ってやる」
「マジかよ!! ははっ!! 有難うな!! ハンナ!!」
久々の再会を祝う恋人達の様に、彼の体を思いっきり抱き締めてやった。
「止めろ!! 気色悪い!!」
「もうっ、初心なんだからっ。ってか、賢鳥会って何??」
毎度宜しく突き飛ばされた勢いで問う。
「里の元戦士達及び有識者で構成された会だ。三つ首討伐の作戦了承はこの会の過半数の賛成が必要となる。今回の作戦は我々五名の里の戦士で三つ首を討伐する事となった。決闘の地はここから東へ向かった場所にある平原、我々の力を最大限に生かせる場所だ。現在は夕刻なのでそこで一晩仮眠をして、此方へ向かって進行中の三つ首とは夜明けと同時に開戦となる」
ふむ……。地上戦を選択するのではなく、鷲の最大の長所である飛翔を選択して敵の視覚を攪乱させるのか。
三つも頭がある奴に真正面から戦いを挑めば返り討ちに遭うし、理に適った作戦だな。
「了解だ。じゃあ俺の当面の仕事は……。ハンナ達の胃袋を喜ばせる事だな。ほら、今日は西の森で鹿の肉を獲って来たんだぜ??」
調理場で静かに横たわる新鮮なお肉へ親指をクイっと差してやる。
「俺の好物の一つだ。最低限の装備を整え、家を出て里の中央へ向かうぞ」
「あぁ、分かった!!」
彼の声を皮切りに今まで静寂が漂っていた室内が途端に喧しくなる。
「なぁハンナ!! この鍋は要るかな!?」
「そんな物は要らん!! 最低限の装備だと言っただろう!!!!」
「お前さんの胃袋を満たす為に必要なんだよ!!」
ふふ、これだけ騒がしくしていると今から死が蔓延る恐ろしい場所へ向かうとは思えないよな。
一泊二日の小旅行前の夫婦喧嘩みたいじゃないか。
だが軽い気持ちのままで向かうのはとてもじゃないけど了承出来ない。これから向かう先は一瞬の油断が死に直結する激戦地なのだから。
五名の里の戦士と三つ首が対峙する壮大な姿を頭の中で思い浮かべつつ、横着な白頭鷲の罵声を浴びながらキチンと料理道具一式を袋の中に詰め込んで行った。
お疲れ様でした。
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