第二百八十九話 密林の白雪の内に潜む者
お疲れ様です。
本日の投稿になります。
エルザードさんの魔力を受け取るとほぼ同時に意識が混濁。
地の底へ落下して行く不快な感覚が暫く続きそしてそれがふと止むと……。鼻腔を優しく擽る伊草の香りと体中に纏わり付く女の香が混ざり合った気持ちの悪い香りが漂い始めた。
人の神経を逆撫でする空気の中に身を置くと意図せずとも顔を顰めてしまいますわね。
これで二度目の訪問ですが……。相も変わらず気に入らない香りですわ。
目の前の空間を手で払っても次から次へと体の中に侵入しようと画策する粘着質な空気に心底嫌気が差す。
己の苛立ちを紛らわす様に周囲へと視線を移した。
「……」
踏み心地の良い畳が敷き詰められた大きな部屋。
四方にある襖は既に開かれ、その先にはここと同じ作りの部屋が視界では捉えられない先まで続いている。
かがり火として機能する紙灯篭の蝋燭の怪しい橙の色も相俟ってか、随分と薄暗い雰囲気を与えてくれていた。
ふむ、以前来た時と何ら変容していませんわね。
ここを見ていると遠い昔、辛く苦しい訓練から逃げ出し。内に潜む力の誘惑に負けた苦い記憶が鮮明に思い出される。
あの時……。
甘い誘惑に惑わされる事無くシオンの言葉に従っていれば彼女を傷付ける事もなかったのに……。
己の脆弱な心と精神に反吐が出ますわね。
「うふふ……。久しぶりですわねぇ、アオイ」
己の弱き心に辟易しつつ悔恨の想いを胸に抱ていると、あの耳障りな声が空気を震わせながら私の鼓膜へ届いた。
「えぇ、お久しぶりですわね。名も無き者よ」
「失礼ですわねぇ。妾の名は『常闇を照らす一輪の……』 」
「一輪の百合花。安心して下さいまし。その通り名は決して忘れる事はありませんから」
正確言えば忘れたくても忘れられないですわね。
私の心に深く刻まれた過去の過ち。その中央に貴女の通り名は確と刻印されていますので。
「覚えていてくれて光栄ですわぁ。妾はアオイに会いたくて会いたくて恋焦がれていたというのに。ほんに辛辣な者よのぅ」
私は会いたくありませんでしたわ。
あなたと会って良い事など何一つありませんから。
「それはあなたが私の体を奪いたいが故で御座いましょう?? 知っていますわよ。あなたがそれを狙っている事も」
「妾の精神とアオイの精神を一つに合わせれば、レイド様を傷付けたあの憎き蛇を打倒する事も出来ましたのにぃ。勿体無い事をしましたなぁ??」
ちっ。
相変わらず人の苦い記憶を掘り起こす事が得意ですわね。
「くくく……。知っていますよぉ。本当はぁ……。妾の大切なレイド様を傷付けた者を殺したくて殺したくて堪らなかった事もぉ。そして愛しの彼に纏わり付く雌犬共を押し退けて独占したい事もぉ」
「そろそろ口を閉じて頂けますか?? 根暗な声を聞き続けていたら気が滅入ってしまいますので」
部屋の四方向の襖を乱雑に閉じながら姿を現さない愚か者へ言ってやった。
「根暗。それはあなたの事で御座いましょう?? 妾はあなたの声の代弁者なのですからぁ」
「そうなのですか。それは……。初耳ですわ!!!!」
全ての襖を閉め終えて部屋の中央で憤怒によって高まった魔力を爆ぜさせてやる。
己の内から昂った魔力が爆風を巻き起こして四方の虚像である襖を吹き飛ばしてやると……。
真実の部屋が出現した。
左右に広がった広い空間一杯に敷き詰められた高級な畳、女王が鎮座する玉座へと続く道には漆塗りで作られた美しい木目の燭台が立ち並び手を誘う様に奥へと続いて行く。
怪しく照らされた燭台の間を進んで行くと、一人の麗しき女性が淫靡な形で足を組み粘着質な視線でこちらを見下ろしていた。
「……」
白を基調とした美しい髪の中に数本流れる色彩豊かな多色の髪、少々切れ長の目の淵には赤い線が彩られ淫らな雰囲気を強調させている。
煌びやかに光る赤と白の着物。
その胸元はだらしなく開かれそこから世の男性を魅了する淫らな胸元が覗く。女性らしい丸みを帯びた肩と双丘が彼女の妖艶さを更に装飾する。
同性である女性さえも魅了してしまう美しさと妖艶さを兼ね備え、思わず生唾を飲み込んでしまう絶世の美女が私の目を見つめながら口を開いた。
「あらあらぁ、流石に二度目となると要領も覚えますわねぇ。お元気でしたか?? 私のアオイ」
「私はここへ世間話をしに来た訳ではありませんの。それはお分かりでしょう??」
「えぇ……。勿論」
赤い唇をにぃっと歪に曲げて癪に障る笑みを浮かべる。
「それなら結構。では、早速本題に入りましょう。私はあなたの力を借りる為に此処へ参りました」
「そのようねぇ」
「短刀直入に話しますわ。あなたは私の事を気に入っているかも知れませんが、私はあなたの事がお嫌いです」
「はぁん。辛辣ですわぁ……」
わざとらしく額に腕を当てて吐息を漏らす。
「あの根暗蟷螂を倒す為にあなたの力が必要なのです。どうか、私にお力添えを頂きたいと存じますわ」
「妾の事が嫌い。ですが、力を貸せと申すのか。妾の立場を自分に挿げ替えて考えてみなさい。それがどれだけ自分勝手か」
「十二分に理解していますわ。レイド様の為……。いえ。私はあの者を倒さなければならないのです」
「成程ぉ……。んぅ――。はて、どうしたものかぁ」
長く細い指を顎に当て、愉快な事を思い浮かべようとしているふざけた笑みを浮かべて組んだ足をゆるりと揺らす。
そして、その数十秒後。彼女が口を開いた。
「――――。アオイの気持ちは理解出来ましたわぁ。私もあの蟷螂娘は気に入りませんので」
それはどうも。
こういう時に気持ちを共有出来ている事は有難いですわね。
「私の力を貸し与えるのは構いませんわ。ですが、一つ条件を与えましょう」
「条件??」
此方の想いを了承してくれたのは嬉しいのですが無理難題を押し付けて来る気ではありませんよね。
「そこまで億劫にならなくても結構。とぉっても簡単な条件ですのでぇ」
一々勿体ぶらないと話せないのですか??
「ふふぅん。相手を手に取るのが妾の好物なの。おほん。では、条件を伝えましょうか。妾は故あってとある種族を大変憎んでおりますのよ」
「種族??」
「アオイの側……。いいえ。妾の大切なレイド様の側で飛び回る一匹の蝿が憎いのです」
まさか、それは……。
「そう。あの薄い胸の女、つまり龍族を憎んでおりますの。アオイに力を与える条件として……」
そこまで話すと口と瞳を閉じ、一呼吸置いて瞼と淫靡な唇を開いた。
「あの者を殺しなさい」
腹の奥が痙攣を起こしてしまう覇気のある声と大気を震わせる魔力を解放して条件を提示した。
両の瞳は血よりも赤く染まり体からは黒き魔力の波動が滲み出て空間を侵食。
その姿は九祖の血を受け継ぐ者の名に恥じない力の塊であった。
くっ……。矮小な魔力を解放しただけでもこれですか。
化け物を越えた化け物ですわね。
「あらぁ?? 化け物の力を求めて来ているのにたじろいでは駄目でしょうぅ??」
「ッ!!」
彼女が圧を放った刹那に自分でも確知出来ない程に後退してしまった様ですわね。
「あなたが放つ香りが苦手ですから後退したのですよ」
下がってしまった体を元の位置へと置いてやる。
「それでぇ?? 妾の条件を了承して頂けますか??」
「――――。暫く考えさせて下さいまし。あなたが彼女を嫌っている様に、私も彼女の事が嫌いですから」
私の大切なレイド様……。彼が居ない世界は考えられない。
彼がこの世を去ろうとした時、私は…………。本当に本当に怖かった。
膝が震え、心臓が五月蠅く鳴り響き、恐怖感と喪失感から思考が停止してしまう程に恐れていた。
怖かったのはそれだけじゃない。
レイド様は己の命を捨ててあの忌々しい女を救った。そう……。自らの命を差し出しても彼女を救いたかったのだ。
それがどれだけ羨ましかったか、妬ましかったか。
自分でも吐き気がする程に嫉妬心で燃え滾り、もしも彼が命を失ってしまってしまったのなら。
恐らく私はあの女を殺して自ら命を断ったでしょう。
彼になら私の全てを差し出しても構わない。だけど、彼には私の醜い姿を見られたくない。
あの女を殺す事。
それは自分の醜さを露呈してしまう事に繋がるのだから。
「ははぁん。葛藤していますわねぇ……。良いですよぉ。その苦悶に満ち溢れた御顔」
「五月蠅いですわ」
「耳を塞ぎ、心に蓋をしても私の声は絶えずあなたの頭の中に、そして心の中で響きますのぉ。ここへ来てしまった以上、硬く堅牢に閉じていた蓋が開かれてしまったのです。さぁさぁ……。アオイの醜い心の声を妾に聞かせておくれ」
五月蠅い、五月蠅い!!
御黙りなさい!!
「それは不可能よぉ。あはは……。アハハははハハァ!!!! 憎い女の血で己の手を真っ赤に染めましょう!! 私とあなた。そしてぇ、レイド様と三人だけの世界を作り上げるのです。二者択一、取捨選択。あなたが選択した道は何処へと続くのか。妾は楽しみで楽しみで狂ってしまいますわぁ!!」
人の心を逆撫でにする高らかな笑い声と余裕に満ちたあのふざけた姿が私の心に黒き怒りを湧き起こす。
私は己の無力感を誤魔化す様に拳を痛い程握り締め何も出来ずに只々そこに立ち尽くしていた。
この場に立ち留まっても何も変わらない、何も成長出来ないと分かっていながら。
お疲れ様でした。
本日も二話更新となります。現在、編集作業中ですので次の投稿まで今暫くお待ち下さいませ。