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第二百五十話 彼女の名は その一

おはようございます。


長文となってしまいましたので分けての投稿になります。




 激しい運動の繰り返しによって温められた体温を逃そうとして頭の天辺からは湯気が立ち昇り茜に染まり行く冬の寂しい空を僅かばかりに装飾する。


 吐き出す息は長々と続けている走行によって熱を帯び、太陽が傾き始めて冷気を帯びた外気に触れると瞬時に形容し難い形を形成して白い靄となって宙に漂う。


 その靄を体の正面で切り裂き只管前へと進む。


 荒々しい呼吸を続け大人程度の重量を誇る背嚢を背負い、普段と然程変わりない速度で大地の上を駆けていた。


 体力的には今の所問題は無いけど、背嚢の重みが体の動きに合わせて皮膚を悪戯に傷付けて来る。この一点だけが問題だな。


 レンカさんの提案通り当て布を取っ手と皮膚の間に挟んでおいて正解だ。



「ぜぇっ……。ぜぇっ……」



 じわりと痛む皮膚を誤魔化す様に背嚢を背負い直してふと前方を捉えると、つい先程まで駆けていた後輩が息も絶え絶えに歩いていた。



 後ろ姿からでも容易に辛そうなのが理解出来てしまう。


 彼が背負う背嚢の形と垂れ具合からして俺達と同じ重量を背負っているのかな??



「おいおい。お前の体は鉛で出来ているのか?? ナメクジだって今のお前より速く動くだろうさ」


「も、申し訳ありません……」



 訓練場の外周の内側から教官の手厳しい声が彼に突き刺さる。



「口を開く元気があるのに走る元気は無いときたもんだ。あ――あ、お前さんが所属する分隊の連中は今頃困っているだろうぁ――。ノロマな隊員の所為で周回数が稼げないんだからよ」


「い、行きますっ!!!!」



 教官から有難い激励を受けると手の甲で滴り落ちる汗を拭い、奥歯をぎゅっと噛み締め。熱い闘志を瞳に灯して顔を前に向けて駆け始めた。



 うんっ!! いいぞ!!



 長時間に亘る訓練は未だ半分を消化した程度だ。その程度で音を上げている様じゃ完走は夢のまた夢だからね。


 敵に追われる事もなければ背負っている仲間が息絶える事も無い安全な訓練だ。安心して体を鍛えましょう!!


 彼の隣を通過しつつさり気なく身を案じてやった。



 この重さを背に感じていると……。あの森で亡くなった彼の事が頭の中に過ってしまう。



 もう少し……、そう。後少しで生まれた故郷に帰れたかも知れないのに。


 俺達がほんの僅かでも彼と早く合流を果たしたら結果は違ったのかも知れない。


 死、というものは深い霧に包まれた様なものだ。


 視界を閉ざされたまま手探りで前へと進み、気が付けば敵意を剥き出しにしたあのドス黒い豚共がこちらを囲んでいる。


 一歩間違えれば俺達も彼の様に骸となり、土の養分となってこの世を去っていたのか……。


 分からないものだな、運命という物は。


 分からないから面白いと言う者もいれば、明瞭に己の分水嶺を確知したいという者も居る。


 俺の場合は……。


 う――ん。どちらかと言えば前者かな??


 これからどのような人生を歩むのかを現在から確認出来たらそりゃあ楽だろうさ。


 どこで、どんな風に失敗をするのか。それが分かっていればまさに夢の様な人生が待ち構えているのだから。


 まっ。


 生物は時を超える事は叶わないだろうし、運命を操るなんて夢見物語さ。それに先の分からない人生だからこそ今を楽しもうと思えるし。



「レイド先輩――!! そろそろ交代ですよ――!!」



 おや?? もうそんなに走ったのかな??


 走り始めた出発地点からミュントさんがこちらへ向かって腕を大きく振って交代を告げていた。


 走る事に専念していたから周回した数を数えていなかったし。丁度いいや、休憩にするか。



「お待たせ、アッシュ」



 出発地点に到着すると体の前に縛っていた紐を解き、大人一人分の重量を誇る背嚢を下ろし。微妙な顔を浮かべている我が隊の先鋒を飾った彼に渡す。



「うっ……。おっめぇなぁ……」



 背負い、そしてその重量を体全体で感じた彼が誰にでも分かる憂鬱な表情を浮かべた。


 まぁ、六十キロもあればそうなるでしょうね。



「肩もいてぇし、足もいてぇ。どっかの誰かさんが貧乏くじを引かなきゃこんな結果にならなかったのによぉ!!」


「うっさいわねぇ。何度も謝ったでしょう」


「謝ってコイツが軽くなるのなら話は別だよなぁ??」


「はぁ?? 嫌味言って楽しいの??」


「あ??」



 おっと、宜しく無い雰囲気だ。


 ミュントさんとアッシュの視線がぶつかり、中途半端に暗くなった宙へ火花を散らす。



「二人共、そこまで。ほら、アッシュ。文句を言っていないで三周走って来い」


「へ――へ――。隊長の御命令ですからねぇ。走って来ますよっと!!」



 両の足に発破を掛け、随分と遅い速度で外周を走り出して行った。



「文句を言いつつもちゃんと走るあたり成長しているな」



 以前会った時の彼なら俺に食って掛かっているだろう。


 僅かに成長した彼の頼もしい背を見送りつつ言葉を漏らす。



「申し訳ありません、レイド先輩……」



 この中途半端な暗さに酷く似合ったミュントさんの沈んだ声が響く。



「別に気にしていないよ。こういう時は良い意味で捉えるんだよ」


「良い意味??」


「あれだけ重い物を背負って走る経験なんて早々無いだろ?? やり遂げた時の爽快感はきっと胸に響く物があるぞ」



 首から掛けた手拭いで鬱陶しい汗を拭いながら話す。



「前向きに考えられない性格なんですよ。私の所為で皆に迷惑掛けちゃっているなぁって……」



 だろうね。


 いつもの太陽みたいな輝きは陰りを見せ、横着を働いて飼い主にこっぴどく叱られた子犬みたいにずっと俯きがちだし。



「隊員の責任は全員で背負う!! 誰かが失敗をしたら俺達が心配するなって肩を叩いて笑ってやる!! 転んで立ち上がろうとするのなら満面の笑みを浮かべて手を差し出してやる!! それが、仲間ってもんだ」



 ミュントさんの小さな頭をぽんっと叩く。



「いたっ……。もぅ、私女性なんですよ??」



 俺の揶揄いを受けると心に生まれた憤りが彼女の頬をぷっくりと膨らませた。



「はは、そうそう。そうやって頬っぺたを膨らませている方がミュントさんらしいよ」


「ふふ、そうですね。はぁ――……。うんっ。ちょっと元気出ました」


「そりゃ良かった。次はレンカさんでしょ?? そろそろ呼びに行かないと」



 彼女を探そうと首をあちこちに動かして訓練場を見渡すが……。その姿は確認出来なかった。


 どこへ行ったのだろう。



「あ、皆は食事を取りに行きましたよ?? 夕食の配給の時間だそうで」



 待っていましたよぉ!!!!


 漸く飯だ!!



「本当か!?」


 ミュントさんの肩をがっちりと両手で掴み、最終確認を取る。


「え、えぇ。そんなに腹ペコなんですか??」



 ほんのりと茜色に染まった顔で話す。


 走り過ぎて暑いのかな??



「そりゃあもう!! どこぞの馬鹿タレが俺の昼飯を食いやがったからな!!!!」



 ウェイルズの野郎……。後でみっちりと説教してやるからな。


 いや、説教だけじゃ足りん!! 横っ面を叩いて、足腰立たぬまで……。


 地獄の王も慄く悪魔的指導方法を頭の中で思い描いていると、後方から待望の声が届いた。



「夕食をお持ちしました」



 来た来たぁっ!!!!


 レンカさんの小さな声を聞き逃すまいと確実に捉えた俺の体は、鷹も目を見開く速度で振り向き獲物に襲い掛かった。



「ありがとう!! 早速受け取っていいかな!?!?」



 自分でも厭らしいと考えてしまうけれども、空腹には逆らえないのです。


 食わないと動けないからね!! これからの訓練に備えての行動なのです!!



「え、えぇ……。どうぞ」



 俺の動きを見て黒き目をこれでもかと大きくした彼女がお弁当を渡してくれた。



「おぉ……!!」



 な、何て美しいんだ……。


 ほっかほかの蒸気を放つ白いお米さんの上に鶏肉の王女様が気持ち良さそうに横たわっている。


 しかも!!


 あたたかぁい茶の毛布を綺麗に被って。


 鶏肉丼の御隣には大地の恵みを吸い取り丸々とお太りになった蒸かしたじゃが芋さんが私を食してごらんなさいと手を誘い。


 脇を固める緑の衛兵達がぶっきらぼうな顔を浮かべるも、王女様のご機嫌な寝息でたちどころに顔が崩れてしまっていた。



 最高な夕食じゃないか。流石王都で五指に入る名店の料理人さんが作るお弁当なだけはある。


 視覚で味を感じさせる見事なお弁当に俺は舌を巻いてしまった。



「では!! 早速頂こう……」



 分隊の待機場所に戻るのも面倒だ。


 そう考え腰を下ろそうとすると、邪険な声がそれを阻んだ。




「お――!! 居た居たぁ!! レイドぉ!! 俺達も今から飯だから一緒に食おうぜ!!」


「そうそう!! 仲良しこよしの四人組でな!!」


「皆で食えば、美味い物はもっと美味くなる」



 ちぃっ!!


 俺は味わって食べたかったのに!!



「あっそう。俺はここで飯を食う。どこかの誰かさんに飯を取られるかもしれないからなっ!!」



 大事そうに両手でぎゅっと弁当を持つウェイルズの顔を正面で捉えて言ってやった。



「あはは、悪い悪い。ほら、俺のじゃが芋とパンやるから行こうぜ」

「了解だ」



 おや?? 即答してしまったぞ。



「じゃあ悪いね!! こいつ借りて行くから!!」


 タスカーがミュントさんへ軽く手を上げる。


「は――い。大事な物ですから、無傷で返して下さいね??」


「それはどうかなぁ?? 傷物になっちゃうかもよ??」


「俺を物扱いするな。直ぐ戻ってくるからね、リネア。分隊の面倒を頼む」


「分かりました。ハドソン先輩、馬鹿騒ぎも程々にして下さいね」



 冷たい目でジロリとハドソンを睨む。



「いやいやいやいや!! 俺まだ何にも言っていないからね!?」


「身から出た錆って奴だよ。どこで食う??」



 喧しい奴等と動き出したついでに聞いてやった。



「んっふっふ――。勿論特等席さ!!」


「は?? 特等席??」



 タスカーの意味深な笑みがもう既に嫌な予感をこちらに抱かせるのは気の所為でしょうかね。



「ほら、パンを配給している子。居るだろ??」


 あぁ、看板娘さんの事か。


「可愛い子を眺めながら飯を食ったら美味いと思わないかい!?」


 俺の頬をツンツンと突くので。


「思わん。飯は飯だ。どこで食べても同じ味だろう」


 それを邪険に払って言ってやった。


「お店でさぁ――。声を掛けたんだけど見事に玉砕しちゃったんだよねぇ……」



 ハドソンが己の落胆加減を分かり易く示す様にがっくりと肩を落とす。



「お前なぁ。営業中に迷惑掛けんなよ。俺達の仕事を考えろって」


「それは、それ。これは、これ。可愛い子なんだから別にいいだろ??」



 可愛いから声を掛けたい気持ちは大いに理解出来る。


 雌に引かれる雄の気持ちは同じ雄である俺にも備わっている機能だから。しかし、仕事中にあれこれと質問攻めにされたら誰だって辟易するだろうさ。



「分を弁えた程度なら許容範囲だけど、それ以上の事を聞かれたから彼女はお前さんの事を拒絶したんだよ。なぁ、どこまで行くんだ??」



 足早に訓練場の内側を進んで行くタスカーの背へと問う。



「もう少し先だ。ん――、ここを通ってっと!!」



 お、おいおい。外周を横切るなよ。


 今も汗を流しつつ背嚢を背負っている訓練生の合間を器用に縫い外周の外へ。



 そして、凡そ二十メートル程だろうか。美味しいパンを配給している配給所を真横から捉えられる位置に陣取り何の遠慮も無しに座った。


 普通ならここで教官達のお叱りの声を受ける所なのだが、俺達と似た様に外周の外側の方々では特に気の合う人達同士で形成された塊が幾つも出来ている。



 前線に出ている者達が共に笑い合いながら飯を食う機会は早々訪れない。



 恐らく教官達はそれを見越してある程度の自由を許しているのでしょう。目に見えぬ、口に出さずとも教官達の有難い御厚意を受け取った。



「ここ!! 真横なら顔も見られるしぃ。美味い飯には綺麗な華が似合うってね!!」


「ったく、知らないぞ?? 怒られても」



 それにつられて座る俺達もどうかと思うけどね。


 久方ぶりの友人の誘いだ、無下に断るのは憚れる思いもあるのかも。


 四人で小さな輪を形成して早速夕食へとありついた。



「頂きます!! ――――。うっまぁい!!」



 おやおや。今のは俺の声ですかね?? 鶏肉を口に入れた途端に心の声が漏れてしまった。


 前歯でお肉を裁断するとじゅわりと肉汁が溢れ出し、しっかりと味が染み込んだ液体が舌を喜ばす。


 ほろりと舌の上で溶ける玉葱、タレの染みついた米がまた食欲を誘う事で。


 食えば食う程腹が減る。


 至高のお弁当に思わず涙が溢れてしまいそうだった。



「ほら、これ」


「おう!! 悪いね!!」



 隣のウェイルズからじゃが芋とパンを受け取り、正に完璧な夕食の布陣に顔が崩れてしまう。


 はぁ、最高だ。飯の時間がこれ程までに心に染み渡るなんて……。


 噛み応えのある鶏肉をムギュっと噛み、そこから染み出て来る味をおかずにして米をかきこむ。


 そして。



「分隊の番号はこちらに記入して下さいね」



 茜色の空の下でも快活な笑みが良く似合う彼女を視界に捉えて咀嚼を終えた口内の栄養素を胃袋へと送り届けてあげた。



 ふぅむ……。タスカーの言う通り、素敵な笑みを浮かべる彼女を捉えながらの食事もまた格別だな。


 味が一割……。いや、二割程増した気がするぞ。


 視覚的効果によって増強された味覚を受け取ると目元がだらしなく下がってしまう。看板娘さんの横顔にはそれだけの効果が認められるって事かしら。



 恐らく第三者から見れば情けない顔に崩れているぞと告げられてしまう表情のまま咀嚼を続けていると、それを正常な位置に戻してしまう無粋な声が届いてしまった。



「お――。そんな所で何してんのよ」



 訓練場の中から俺達を見付けたトアが声を掛けて来る。



「飯食ってんの――!!」



 これまた馬鹿丁寧に声を返したのがハドソンだ。


 口の中に詰まった御飯をもごもごと咀嚼しながら叫ぶものだから、お米さんが怒って飛び出して来たじゃないか。



「ふぅん。おっ、美味そうじゃん……」



 膝元に飛来したお米さんを払っていると不穏な声が徐々に近付いてくるので、何気なく顔を上げるとそこには……。



「……っ」



 腹ペコの犬の様に目を煌びやかに輝かせ、俺の大事なパンを見つめている彼女がこちらへと向かって来るではありませんか。



 不味い。あの目は非常に不味い!!



「や、めふぉ!! これは俺のパンら!!」



 くそう!! 噛み応えのある鶏肉さんが言葉の出口を塞いでしまっている!!


 早く、飲み込まないと!!



「あんたの物は私の物なのよ。ハドソン、ちょっと退いて」


「う――い」


「やめふぉろ!!」


「いただきま――すっ」



 左隣の友人を強制的に退かせ、剰え俺のパンを何の遠慮も無しに取り上げ食う。


 傍若無人の塊だな!!



「んふっ。おいしっ」


「あのな?? それ、俺の飯なんだぞ??」



 目尻を下げて咀嚼を続ける傍若無人さんをジロリと睨む。



「美味しかったわよ??」


 いや、そうじゃなくて。人の所有物を勝手に奪うなと言いたいのです。


「なぁ、トア」


「ん?? 何よ、タスカー」



 大人の拳大程のパンを颯爽と平らげたトアが彼の方へ顔を向ける。



「お前とレイドって……。その……。付き合ってんの??」


「「ぶっ!?」」



 危ない、変な質問の所為で鶏肉さんを吐き出してしまいそうだった。


 こんな美味しい物は吐き出す訳にはいかんのです。



「ば、馬鹿じゃないの!!」


「そ、そうだぞ!! 付き合っている訳ないだろ!!」



 お互い顔を朱に染め、口を揃えて馬鹿者へ返事を返してやった。



「いや、妙に親密だなぁってさ。訓練所に居た頃とあんま変わっていないけど。ほら、空気というか……。そういうのがあるだろ?? それに付き合っているのなら邪魔しちゃ悪いかなぁって」



 変な所で気が利く奴だな。



「あのねぇ。こんな駄犬と高貴な私が釣り合う訳ないでしょ??」


「人を駄犬呼ばわりするな」



 何度言ったら分かるんだよ、全く。



「違うのならいいや。続けて聞いて悪いけどよ」


「何よ、まだ何かあんの??」


「あそこの……。ほら、可愛いパン屋の娘さんの名前って知ってる??」



 あぁ、何だ看板娘さんの名前か。彼女の名前は……。



お疲れ様でした。


後半部分はこの後所用を片付けてから編集作業を開始しますので今暫くお待ち下さいませ。

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