第二百五話 彼等が目の当たりにした事実 その一
お疲れ様です。
本日の前半部分の投稿なります。
何処からともなく吹く冷涼な風が身を悪戯に傷付け地面から這い寄る冷徹な空気が体の奥底まで凍てつかせる。
眠りとも覚醒とも言えない中途半端な心地の中。
深い眠りへ落ちようとすると周囲に渦巻く寒さがそうはさせまいと意識に鞭を打って覚醒を促す。
妙にごわつく背中と半分凍った大地が体の感覚を麻痺させ。ここでは普通の眠りに就く事は叶わないであろうと確信させた。
不帰の森へと侵入して南南西へ進む事、本日ではや二日。
本来なら目的地である魔女の居城へと既に到着してもいい筈なのだが……。
深く暗い森の中、いつ出現しても不思議では無い敵の幻影へ最大級の警戒を放ち続ける事で行程を遅らせていた。
そして、この行程の遅れの最たる要因は何度か前方に敵の姿を発見して迂回を余儀なくされ、足跡を残さぬ様に泥濘を避け、徹底的に相手の索敵を避けた結果だ。
迂回と回避行動の連続、そして警戒心の継続。
体力はまだまだ十分過ぎる程残っているが、精神の方はどうかと聞かれたら即答は出来ない。
この精神の摩耗は恐らく見えぬ敵から与えられた幻の攻撃と断定しても良いだろうさ。
体のしこりが溶けてしまいそうな温かい部屋、そして重さの欠片も感じられない柔らかな羽毛の布団に包まれ何も考えないで眠りに落ちる。
そんな贅沢は言わない。
だけどせめて。数時間でもいいから警戒を解き普段通りの眠りに就かせてくれ。
微睡む体の内側で誰にも言えない愚痴を放ちつつ眉を顰めた。
「――――。レイド」
「……っ」
警戒を解かぬまま浅い眠りに就いた所為か。
予期せぬ声を受けて体がビクリと跳ねる。
「んっ。トア、か」
「あ、ごめん。起こしちゃった??」
冷たくなって開け辛い瞼を開けると、膝に手を着き幾分か心配そうな瞳を浮かべているトアの姿を捉えた。
「いや。半分寝ていて、半分起きていたからな。気にしないでくれ」
小鳥の囀りにも劣る声でそう答えた。
「そっか。こんな場所でぐっすり眠れる方が可笑しいわよね」
「まぁな。ふぅ……。んんっ!!」
もたれていた木から上体を起こして体を縦に伸ばす。
うぅむ……。足に残る重い疲労、僅かな違和感を覚える腰回り。
自分で考えている以上に疲れが蓄積されているのかもな。
「はい、お水」
「おっ。悪いね」
彼女の手元から現れた竹筒を受け取り乾いた喉を潤す。
出来る事なら温かいスープを腹一杯に飲み干したい。
前線基地を出発してから一度たりとも火を灯していない所為か、炎の温かみの有難さを痛烈に感じていた。
「……ふぅ。御馳走様」
半分程水を残した竹筒を渡す。
「どういたしまして。お詫びは夕食、一食分ね」
「水一杯で大袈裟だって。大尉は??」
「前方で哨戒に当たってるわよ」
「そうか」
今から遡る事数時間前、行程の遅れを懸念して淡い月明りの中で進軍を続ける案も出たが大尉は。
『土地勘の無い場所で無暗に進むのは得策では無いわ。奇襲に合う確率も高い』
そう仰られ行軍は一時停止。夜間は交代で休む事となった。
本日の夜間哨戒任務はトアと大尉。
その任を解いた我がニ十期生首席卒業のトアの目元は微かに憂いを帯びており、疲労度が蓄積されている事をこちらへ如実に伝えている。
一般人の体力と比べて段違いに多い彼女でも疲労を感じているのだ。ここの森が放つ重い空気は普通のそれと一線を画している。
何処からともなく漂い、肌を泡立たせる異形の空気。
簡素に言い表せばそうだが……。
問題はこの空気の出元だよな。
今も俺達の周りに捉えて見せよと渦巻き、逆巻き。目に見えぬ不吉な空気が心を侵食し続けていた。
「よいしょ……っと。俺は荷物を纏めて大尉の様子を見て来る。トアはイリア准尉へ出発の報告をしてくれ」
木の根元に纏めて置いた背嚢、装備一式を背負いそう話す。
「了解。ルズ大尉は前方に待機しているわ」
「分かった」
南南西へと体の正面を向け、出来るだけ物音を立てない足取りで進んで行く。
こうして周囲に気を配りながら歩くのも疲れを増幅させる一因だよなぁ。
まぁ……。斥候任務だから仕方ないとは思うけど。
出来る事なら何の気兼ねも無く、これでもかと大袈裟に踵で大地を踏み鳴らしたいものさ。
朝露を含んだ柔らかい土の上を踏みつつ進んで行くと。
木の幹に左肩を預けこちらに頼もしい背を見せつけている大尉の姿を視界が捉えた。
「――おはようございます。大尉」
空気の振動を最小限に抑えた声量で声を掛ける。
「レイド伍長か。おはよう。よく眠れた??」
顔だけをこちらにくるりと向けて挨拶を返してくれる。
おっ、大尉の顔色は普段と変わりないな。
流石ですね。
「いえ。微睡んでいた、と申しましょうかね」
「少しでも休められるだけでも儲けものよ。正午頃にはこの森を抜け、魔女の居城を視界に捉える事が出来ると考えているわ」
彼女の手元を見つめると小さな地図が握られており。
そこに視線を落として本日の大まかな行程を伝えてくれる。
「今はどの辺りでしょうか??」
彼女と肩を並べ小さな地図へと視線を落とす。
「今は……。恐らくこの辺りでしょうね」
ルズ大尉が指差したのはアイリス大陸南部を西から東へ横断している不帰の森。その森の中の南南西の一箇所だ。
歩む速さを加味した結果は……。踏破完了まで残り凡そ二割の位置であった。
地図上では森に囲まれた平原まで目と鼻の先だが生憎、人は矮小な存在。
この僅かな距離が人間に対してどれだけの負担を掛けるかは自明の理である。
まだまだ予断を許さない状況である事は変わらないか
「ふむ……。大尉の予想通り、本日の昼過ぎには到着出来そうですね」
大雑把な計算だとそれ位であろう。
何も問題が無ければ、の話ですけどね。
「今から遡る事約二十年前。第一期生がこの森を抜けて目の当たりにしたのは……。だだっ広い平原の中に魔女の居城を見たと伝えられているわ。私達は森と平原の境目から敵情視察を行う。ある程度の情報を得たら即刻退却するわよ」
「了解しました」
「そう気構えなくてもいいわよ?? 何も戦いに赴く訳じゃないんだから」
地図を丸めて鞄に仕舞いながら大尉がこちらを伺う。漆黒の瞳には何処か人を安堵させる力強い意志が宿っていた。
こうした小さな気遣いが今は嬉しい。
「そう、ですね。どれだけの敵がいるのか分かりませんし。それに今回の任務は斥候ですからね」
「敵の数、規模、所持している武器や部隊の編制。どんな些細な情報でも持ち帰るのが我々の使命よ」
我々、か。
俺達以外の部隊も派遣されていると伺ったが侵入した箇所が違う所為か。その痕跡すら見つからないのが少々気掛かりといいますか。
心配の種というか……。
「自分達以外の隊は無事、なのでしょうか??」
大尉にも分からないと考えるが、心の中でモヤモヤと形を取らない不安を紛らわす為に問うてみる。
「第一から第三分隊までは我々より西部から侵入を開始した。無事である保障は我々にも、そして当然他の隊にも無い。今は他所の隊よりも己の身を案じなさい」
「はっ」
質問した俺が馬鹿だったな。
元より生還の保障が無い任務だ。他の分隊も俺達同様、今もこの森の中を行軍し任務を遂げようとしている。
そう考えると多少なりにも力が湧いて来るもんさ。
大尉が仰られた様に今は自分達の任務を全うしようと考えるべきでしょう。
「ちょっと厳しい言い方だったかしら??」
「え?? いえ。的確な指摘であったと考えています」
「そう……」
何だろう。厳格な瞳の中にふと弱気な何かが映った様な気がしたけど……。
気の所為かしらね。
それとも他に何か言いたい事があるのだろうか??
それを問おうと口を開こうとすると、背後から二つの気配が近付いて来た。
「ルズ大尉、お待たせしました」
少々頼りない覇気の声色でイリア准尉が話す。
「イリア准尉。しっかり休めたの??」
「正直な所。気休め程度の休息でしたね。こう、何んと言うか。妙に空気が重たくありませんか??」
俺が感じた空気の重さはやはり、俺以外にもしっかりと伝わっているようだな。
現に准尉の顔色は芳しくない。
目の下にはちょいと横着なクマさんが現れどことなく足取りも重い。
「恐らく、だろうけど。この空気の重さは目的地に近い証拠じゃないのかしら。森に侵入する前には感じる事がなかったし」
「自分もそう考えます。森の奥へ進むに連れて足に。そして体全体に絡みつく感じがしますから」
多分……。
と、いうか。確実にこれはマナの影響であろう。
いや?? 魔法か??
魔法の扱いに長けていない俺に取って今一掴み取れない感覚だけど、カエデやアオイ。そして、エルザード。魔法に長けた者が詠唱するとこの空気に似た重さを肌で感じるし。
これも重要な情報だよな。無事に帰還出来たら報告してみよう。
「でも、大尉とレイドは私達に比べると……。ちょっと元気そうよね」
「そうか?? 俺もお前さん同様。多大に疲労を感じているぞ」
イリア准尉同様、顔色に疲れが滲み出ているトアへと顔を向けてやる。
「あんたは体力馬鹿だからね。それに比べて私はか弱い女性なの。荷物を持ってくれてもいいじゃない」
俺の耳はいつから遠くなったのだろう??
「誰がか弱いって」
「私よ。わ、た、し。聞こえなかったのかしら」
少し背伸びをして、俺の頭をコツンと突く。
「どの口が言うんだよ。か弱い女性なら別れ際に石をぶん投げる訳ないだろう」
先日の兵舎前の出来事が不意に頭の中を過って行く。
アレ、すっごい痛かったし。
「あれはあんたが悪いんでしょ!! 人の事を臭い臭い連呼してたし!!」
「お、おい。もう少し静かに話せって」
俺の胸倉をぐぃぃっと掴み、眉をこれでもかと顰めている同期を宥めてやる。
「あ、ごめん」
案の定叱られた子犬の様に萎むが……。腕を外す気配はなかった。
苦しいから放して欲しいのですけど??
「あはは。二人共、仲が良いわよね」
「まるで長年連れ添った夫婦みたいね」
イリア准尉とルズ大尉がこちらを揶揄う。
「え――?? やっぱりそう見えますぅ?? ほらぁ。あなた。襟が曲がっていますよぉ??」
「曲がっているのは、お前さんが馬鹿力で締め上げている所為だろう」
胸倉から首元へ移動した両手がグイグイと襟を締め付ける。
「は?? 折角、この私が直してあげているってのに。気に食わないの??」
おぉう……。この目は不味い。
「あ、ありがとうございます。トア様」
「んふっ。宜しいっ」
鷹も思わず上半身をグィィっと仰け反って慄く目力が消え失せ。代わりに万人が納得する柔和な角度の目が訪れた。
ふぅ……。ついつい二度寝してしまう所でしたね。
「ほら、二人共。イチャイチャするのは帰ってからにしなさい。大尉はもう出発しちゃったわよ」
イリア准尉の声を受け、首だけを器用にくるりと動かすと大尉の頼もしい後ろ姿が森の奥へと消え失せて行く所であった。
「はぁい。イチャイチャするのは帰ってからにしますね」
「おい。そんな事しないからな??」
場を和ますため冗談で言ったと思うが。
一応、ね。
「えぇ!? しないの!?」
トアがわざとらしく両手で口元を隠す。
「そういう事は然るべき時、然るべき信頼関係を構築した上。お互いの了承を得た時に初めてするものだ。雰囲気に流されてするものじゃない」
口では偉そうに話すが、流されそうになった時は何度かあるな。
最近では、そう。こことは真逆の優しい空気が広がる宿屋で……。
あの時のカエデの赤らんだ顔がふと浮かび体温が数度上昇したのを感じてしまう。
「相変わらず馬鹿真面目ねぇ。ほら、馬鹿犬。行くわよ」
大尉同様、森の奥へと進むイリア准尉の背中をトアが追い始める。
勿論。何の遠慮も無く俺を置いてだ。
「あ、おい。置いて行くなよ。後、誰が馬鹿犬だって??」
「聞き間違いでしょ」
人の事を何だと思っているんだ、こいつは。
他人から見れば苦虫を嚙み潰したような渋い顔を浮かべつつ。大きな溜息を吐き散らし、重々しい空気を体の奥から放つ圧で跳ね除けながら行軍を再開した。
お疲れ様でした。
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