第百六十二話 眠れる龍に触れるべからず
お疲れ様です。
後半部分の投稿になります。
静寂が漂う空間に誰かの寝息がそっと静かに響き、裏路地を走り抜けていく足音が耳を楽しませ。会話に華を咲かせた談笑が窓を潜り抜けて室内に反射して鼓膜へ届く。
修行に勤しむ仙人さんも足を投げ出して寛げる静謐な環境下で無いと確知出来ない生活音が仕事を捗らせてくれていた。
只、その中でもうら若き女性達の寝息が体の中枢に存在する睡魔という強力な悪魔の肩を叩いてしまうのは頂けませんよね。
気を抜くと直ぐにでも眠ってしまいそうだ。
「スゥ……。スゥ……」
可愛い鼻息を漏らして気持ち良い眠りを享受しているお惚け狼。
「……」
完璧な丸を描いて大人しく眠るもう一頭の強面狼。
「「……」」
カエデは珍しく小さな海竜の姿に変わるとベッドの中へと潜って行き。アオイは俺の右肩に器用に止まり先程から身動き一つしていない。
各々が蓄積した疲労を拭い去ろうと束の間の静寂を謳歌していた。
「ふぅ……」
俺も彼女達に倣ってちょっと休憩っと。
ぐんっと、肩を伸ばそうとするが。
「おっと。アオイが乗っていたか。…………。アオイ?? 寝てる??」
細かい毛に覆われた頭部を指でちょんと突くが何の反応も帰って来ない。
寝ちゃってるよね??
暫く様子を窺っていると。
「んっ……。んん……」
可愛い寝言が空気を伝わり鼓膜に届いた。
「はは。やっぱそうか」
極力振動を与えない様に立ち上がるとアオイのベッドへと向かった。
強さの塊である九祖の系譜の血を引く傑物達。
気丈な振る舞いを時折見せるが、それでも中身はその辺の女性と変わらない。嫌な事があれば凹み、仲間と共に悩みを共有し、嬉しい事があれば共に笑う。
体力も、精神にも当然限度がある。
今、皆が寝静まっているのが良い証拠だ。
今回の任務では色々とあったからなぁ……。暫くの間は心と体を休ませてあげたい。
「ゆっくり休みなよ」
肩に付着する粘度の高い一筋の糸を剥がし、アオイを布団の中に入れ再び机の前に戻る。
ふぅ……。やっと三割、か。
肩をぐるりと回し、両腕を天井へと伸ばし凝り固まった筋力を解す。
「……っ!!」
やっぱりまだ痛むな。
鋭い痛みが腕を伝い、頭の天辺まで駆け抜けていく。
はぁ――……。カエデの言う通りにしておけば良かったのかな。
でも、帰りの道中。口酸っぱく言っていた様に頼り過ぎているのもまた事実。
カエデに頼ってばかりじゃなくて、いつかは彼女から頼られたいものさ。
まぁとてもじゃないけどその姿が想像出来ませんけども。
上着を脱ぎ、包帯を外して、痛々しい怪我の痕跡が残る右腕の状態を確認する。
ん――。パッと見は治っている様に見えるけど……。
骨全体が痛むんだよねぇ。
指、腕の骨。右腕に詰まっている全ての骨が迸る痛みにより難しい顔を浮かべている。そんな感じだ。
報告書を書き終え、面談を済ませてから師匠の所へお邪魔させて頂こうかな??
そして湯治を懇願させて貰って……。
包帯を巻き直してこれからの大雑把な計画を頭の中に浮かべていると。力の塊が堂々とこちらに向かって来るのを感じた。
相も変わらず堂々としていますなぁ。
貴女の存在は馬鹿みたいに自己主張が激しいので、砂粒程度でも良いから気配を消す努力をしなさいよ。
ほら、開けるぞ。
「よぅっ!! やってるかぁ――!?」
此処は場末の酒場でも、街中の大衆食堂でも無いので静かに入って来て欲しいと思うのは自分だけでしょうか??
部屋の扉を仰々しく開けて死人も思わずガバッ!! と上体を起こしてしまう程に元気な挨拶を咆哮するが。
「ありっ?? 随分と静かね??」
静まり返った部屋の雰囲気に眉を顰めてしまう。
凡そ、ワイワイと燥ぐ姿を想像していたのだろう。
「皆長旅で疲れているんだ。静かにしてろ」
包帯を巻く作業を続けたまま、お馬鹿さんへ振り返って話してやる。
「ほぉん。なっさけない連中ねぇ体力が少ないのは走り込みが足りない証拠よ」
誰しもが頑丈過ぎるお前さんと一緒だと思うなって。
龍の姿に変わるとふわりと宙に浮き。
自分の体の倍ほどもある紙袋を両手に抱えてこちらに飛んで来た。
「お。何?? 差し入れ??」
この香りは……。ココナッツのパンだな!!
甘い小麦の匂いに誘われ、胃袋が喉から手を差し出そうと画策してしまう。
「はぁ?? んな訳ないでしょ。これ、ぜ――――んぶ私の物だもん」
机の上に着地すると鋭い龍の爪で紙袋を破かない様に大切に横たわらせ、乾いた音を立てて頭ごと紙袋に頭を突っ込む。
己は狭い所に好んで顔を突っ込む猫か。
「一つくらいくれよ」
「嫌よ!! 私のお金で買ったんだもん!!」
どのパンを選ぼうか。
そんな陽性な感情が揺れ動く尻尾から容易に窺えるぞ。
この揺れ具合は……。そうだな、満足度八割ってところだ。
「いいだろ。一つだけなら」
「御断りって言ってるでしょ!!」
「ケチだな」
生きていく為には栄養が必要なのにそれを良しとしないとは……。
憤りが募り左手の指で嬉し気に揺れ動いている真っ赤な尻尾をピンっと弾いてやった。
ふむっ、中々良い具合で弾けたぞ。
「いっでぇ!! おらぁ!! 至高の尻尾に何勝手に触れてんだぁ!!」
鼠も驚く速さで振り返ると同時に岩をも噛み砕く牙が人差し指に襲い掛かる。
「いってぇぇええ――ッ!!!!」
「ふんっ。自業自得よ!!」
「あのなぁ!! 何も噛む事はないだろ!?」
出血が目立つ指を口に咥え、パンを大事そうに両手に抱えている深紅の龍を睨んでやった。
痛過ぎて指が千切れるかと思ったぞ……。
「人様の尻尾に手を出すのが間違いなのよ。頂きますっ。あ――――んっ」
一人だけ飯を独占しやがって。
こちとら、仕事の所為で飯を食いに出掛けられないってのに。
「ふぉむ……ふぉむっ……。んんっ!! んまいっ!!」
「そりゃよ――御座いましたね」
右手で頬杖を付きながら話す。
「最高よ、最高。私を満足させる為にこの街は存在しているのに違いないわ」
「んな訳あるか。そのパン、ココナッツのだろ??」
「ふぉうよ――」
口の中に物を詰めながら話すなよ。
満足気にきゅぅっと曲がっている口の端からパン屑がポロポロと落ちているし……。後で掃除しなきゃな。
「よくわらっわわね??」
「お前さん程じゃないけど、匂いで何んとなく。かな?? 看板娘さん、元気だった??」
ふと彼女の姿が頭の中に浮かぶ。
明るい茶の髪の髪を揺らして訪れるお客さんに笑顔を振り撒く様は……女神様??
いやいや。
そこまで仰々しく捉えるべきじゃないな。
万人がほっと肩の力を抜いてしまう柔和な笑みを浮かべているという事です。
「ふぉう。れんふぃらったらわよ?? おふぁめしふぇふぉらっちゃら」
「へぇ。幾らになったの??」
「ろっふぁく」
「やっす!!!!」
これだけ買って六百って……。
「お前、脅してないだろうな??」
看板娘さんの華奢な首を万力で掴み上げて割引を強請り、それでも首を縦に振らないのなら気道を塞いで強制的に割引を勝ち取る。
先日発生した銀行強盗よりも質が悪い客だよな……。
「んんっ!! まさか。贔屓にしてもらってるから、どうも――って感じだったわよ??」
ふぅん、何かいつも悪いなぁ割引して貰って。
今度またお詫びの品でも買って行こうかしらね。
「それより……。む。全然捗っていないじゃない」
パンを片手に机の上を移動し、作成中の書類を見つめる。
「あのなぁ。今日の午前に始めたんだぞ?? いきなり終わる訳ないだろ」
「それもそっか」
「はぁ――……。腕は痛むし、腹は減るし、仕事の量は減らないし。踏んだり蹴ったりだなぁ!!」
こうして弱さを見せれば、差し入れとしてパンを恵むだろう。
ふふ、俺も大分こいつの性格を分かってきたからな。
「あっそ」
あっれ?? おかしいなぁ??
俺の予想の真逆の反応が帰って来たぞ??
「マイさん?? そこは可哀想と考え、パンを恵むのでは??」
「は?? 私に居場所を問うて、五月蠅いって言った奴に恵む必要なんか無いじゃない」
「俺は言ってない!!」
「確固たる証拠は無く、状況証拠で加味した結果。有罪よ」
ふふんと勝ち誇った口角で話す。
「へいへい。仕事続けるから向こう行ってろ……」
どっしりと腰を据えようと画策している龍を摘まもうとするが。
「触ったら噛み砕く!!」
あ――んと口が開かれてしまったので慌てて手を引っ込めた。
「はぁ……。仕事の邪魔しなきゃいいよ」
「おうっ!! 私が監視してやるからね!! 安心して続けろ!!」
「辛辣です事……」
情けない溜息を零して姿勢を整え。憎き山を削るべく筆を手に取り、鋭い深紅の瞳の監視を受けながら作業を再開させた。
――――。
茜色から闇へと空色は移り変わり夜の帳が完全に降りた頃。
人々は本日の夕食を思い描き空腹に突き動かされて家路へと歩みを急かせる。
当然、それはこちらにも当て嵌まるのだが。
俺は足の代わりに、机にしがみ付いて忙しなく右手を動かしていた。
「あふらぁ…………」
「ったく。なぁにが監視してやる、だ」
遡る事数時間前。
机の上に持ち運んだパンを全てペロリと平らげた龍は満足気にポンっと一つ太鼓腹を叩き、随分と寛いだ姿勢で俺の手元を眺め始めた。
『ねぇ。思ったんだけど。毎回毎回何をそんなに書く事があるのよ』
深紅の龍が居間で寛ぐ休日のお父さんと同じ姿勢で問うて来る。
『あぁ、これ?? 活動記録』
『活動記録ぅ??』
『起床時間から就寝時間までの総移動距離。お金を使用したらその額の詳細。移動した経路を記載して、移動中に敵対勢力を発見に至ったのか。又は軍部に直接関係あるような事柄を記載。備考欄に地図を記載して、移動経路を分かり易くしなきゃいけないのが面倒なんだよ』
『ふぅん。只歩いたぁって書けばいいじゃない』
一枚の報告書を手に取り、深紅の甲殻で包まれた頭をふむふむと上下に動かす。
『小っちゃい子の日記じゃないんだから。後、返せ』
『うぉっ。まだ読んでいる途中だったんだけど??』
『大事な紙なんだ。かっこいい爪で切り裂かれたら敵わん』
『カッコイイ?? へへ、そんなに褒めるなって』
皮肉なんですけど??
己の爪を見下ろしてえへへと笑う。
『でも、それとこの紙は違う種類よね??』
『それは経費の詳細書。んで、こっちが経路図。そしてこれが任務詳細書。これを軍部とイル教用の二対完成させなきゃいけないんだ』
『うぇ。軍部はまぁ分かるわよ?? あんたが所属しているんだし。だけどさぁ……』
机の上でコロリと横になり、左手で顔を支えながら話す。
『それは俺も同じ気持ちだよ。だけど、あいつらの資金が俺達パルチザンの骨子を支えていると言っても過言じゃないんだ』
『オークを退治したけりゃ金が要る。金がなけりゃ人は守れない。世知辛い世の中ねぇ』
『背に腹は代えられないのさ。胸糞悪い連中だけど、今この時だけは共に手を取って魔女殲滅に心血を注いでいるんだ』
『私達が人間達に協力出来ればいいんだけどねぇ……』
軟体生物の様に、くたぁっと崩れた姿勢に変わり。
長くなってしまった瞬きを行いながら俺の話に何んとか答える。
『随分と優しいな??』
マイが何気なく発してくれた言葉がほんのりと心を温めてくれた。
人間達に協力してくれる。その言葉どれだけ嬉しい事か。そして、どれだけ心強い事か。
有難うな?? 言葉も通じない人間達を助けてくれようとしてくれて。
『私は元々……。優しいのよ……』
今度はだらしなく仰向けになり、さぁいよいよ夢の世界への突撃体制を整えてしまった。
『その姿勢で言われてもなぁ』
『うっさい……わね。お腹一杯だから……。ねむた…………』
いってらっしゃい、夢の世界へ。夢の世界の住人さん達を困らせない様にね。
「んがっふ…………」
そんなくだりがあり、こうして今に至るのだが。どうせ寝るのならベッドで眠って欲しい。
鋭い爪でガリガリと腹を掻き、意味不明な寝言が集中力を削ぎ落してしまうのですよ。
「あっ……。んっ……。おにぎり、は……。塩味で」
「おにぎり??」
「えへ…………。みっつもぉ……」
眼前に美しい三角形が現れたのか、にっと口角が上がり幸せな夢の内容をこちらに連想させる。
「三つもかよ。食い過ぎだって」
いかん、手が止まってしまった。
でも、まぁ。休憩にしようかな。アホな龍の寝相を観察していたら何か気が抜けちゃったし……。
羽根筆を静かに置くと右手で頬杖を付き、優しい寝息を続ける深紅の龍へ温かい視線を送った。
「あふぇ……。お代わ、りくらはい……」
「…………。お客様お待たせしました。おにぎりのお代わりをお持ち致しました」
これでどんな反応するだろう。
ちょっと試しに。そう考え、夢の中のこいつと会話をしてみた。
「あふぃがと――……」
「ははっ。成功したぞ」
小さな御手手がわちゃわちゃと動き、何かを受け取る動きを見せてくれた。
こんな小さな体で良く頑張っているよ。
何気無く龍の頭へ左手を動かしてそっと撫でてみる。
う――ん……。何んと言うか。
硬い感触はそうなんだけど、つるりと滑らかな手触りもある。
爬虫類の外皮にも似ているよな。
「…………えへへ。次は……う」
梅干し入り、かな。
「うどん……くらはい……」
うどんかよ。引っ掛けとは恐れ入った。
こんな情けない寝言を呟いていても、強さは天井知らずの傑物。
俺はその事を完全に忘れて油断しきっていた。
「…………らめっ!! あらしの…………!!!!」
「いぎぃぃっ!?」
誰かに食事を取られてしまう夢でも見ているのか。
幻の食材を取られまいとして両手で俺の手を掴み、鋼鉄の剣の切っ先よりも鋭い牙が左手に打ちつけられてしまった。
龍の牙が呆れんばかりの咬筋力を以て皮膚を裂き、肉を穿つ。
周囲の静寂を邪魔しては不味いと考えてしまうクソ真面目なもう一人の自分の所為で、叫べずそして勢い良く振り払えないでいた。
「フゥ――ッ!! ンンッ――!!」
声にならない声を上げて熱した鉄を当てられた様な激痛に必死に耐える。
い、痛過ぎて涙が……。
「…………かえふぇ!!」
やっばい!! このままじゃ手が噛み砕かれる!!
な、何んとかしなきゃ!!
「お、お客様……。そ、そ、そちらのうどんは……。ひっ!! と、隣のお客様の物ですので……。うぐぁっ!! ど、どうかお渡しに……」
「らに?? …………それらら……しょうらないわ」
ふっと口を開き、だらんと体を弛緩させると漸く死の拘束を解いてくれた。
涙で歪んだ視界で慌てて怪我の確認をすると。
「うっわ……」
左手の甲に四つの穴が開きそこから赤い水が湧いていた。
龍の意地汚い唾液と赤い水が混ざり合い何とも言えない色へと変わる。
もし、俺が機転を利かさないであのまま放置していたら……。
龍の牙によって骨ごと粉砕されて真っ赤な血で染まる机の上を想像したら背筋に氷柱を当てられた様な冷たい感覚を覚えてしまう。
平和で静かな時間が一瞬で恐怖のどん底へと叩き落とされてしまった。
「傍迷惑な奴め」
「……ふひ」
このままじゃ俺の手処か報告書の作成に支障を来す。
申し訳無いが移動して貰いましょうかね。
音を立てずに椅子を引き、噛みつかれない様にずんぐりむっくり太った赤き雀さんをそっと両手で掬う。
結構重い、よな。左胸のポケットに入っている時の感じは以前よりも重たくなっている気がするし。
成長しているのか?? それとも只単に太っただけか。
何気無く女性相手に太ったなど、口が裂けても尋ねられない。もしも尋ねたとしても正確な数値はおろか。問うた事を酷く後悔してしまう痛みが襲い掛かるのは自明の理さ。
「よいしょ……っと」
いつも使用しているマイのベッドへ静かに置き、優しく布団を掛けてやる。
「おやすみ。ゆっくり休めよ??」
そう声を掛け、机に戻ろうとすると。
「……ありがとう」
秋の夜長に鳴り響く鈴虫の鳴き声よりも小さな声色が微かに空気を揺らした。
「は?? 起きてるの……。あれま。寝てんじゃん」
振り返り様子を窺うも、目に飛び込んでくるのはだらけきった顔と気持ち良さそうな寝息のみ。
「器用な奴め」
ふっと息を漏らして机に戻ろうとするが、腹の虫が遂に我慢の限界を訴えてしまった。
そうだよなぁ……。本日は真面な飯を食っていないし。
そりゃ不機嫌になりますよね。
これからの激戦に備えて食料を補給してきましょうかね。
必要最低限の荷物を装備して部屋の蝋燭の明かりを消し、安寧の暗闇を迎えてあげる。
「それじゃ、皆。おやすみ」
「ふがっふ……」
部屋を包むのは誰かの静かな寝息と相も変わらず継続する龍の寝言と鼾のみ。
心行くまで静寂を楽しんで下さい。
蟻の足音に匹敵する程の音で扉を開き、そして閉じて鍵を掛け。
これから待ち受ける輝かしい御飯に胸を膨らませて若干埃っぽい空気が漂う草臥れた通路を弾む様に進んで行ったのだった。




