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第六十四話 彼と彼女のすれ違い

お疲れ様です。


本日の投稿になります。




 最近知った言葉でこんな言葉がある。



『腹八分目に医者いらず』



 この言葉の意味は満腹になるまで食べないで八分目までに抑えておけば健康でいられるという意味らしい。


 当然、私はこの言葉の意味を理解している。


 だが……。


 一度噴き出した欲求を抑え込む程、私の精神は屈強では無いのだよ!!


 八分??


 はっ、しゃらくせぇ。限界の限界を超えるまで食ってこそ体が強くなるんじゃない。


 この言葉を考えたお馬鹿者に私の崇高なる考えを小一時間程説いてやりたいわ。


 そして、こいつらにもね!!!!




『マ、マイ。もういいんじゃないか??』


『そうだよ。赤ちゃん出来たみたいにお腹重たいもん……』



 ベンチの上で牝馬の出産間際みたいにぜぇぜぇと喘いで横になる二人を見下ろして私は少しばかり溜息をついた。



『あんた達ねぇ。私と行動を共にしているんだから、これ位食べきらなきゃ駄目じゃないの』



 本日二袋目の揚げ芋をポリポリと摘まみながら言ってやった。



 んっ、二袋も相変わらずおいしっ。



『呆れたな。その上まだ食うのか??』


『ん?? リューヴも食べる??』



 呆れた目で私を見つめる彼女へ紙袋を渡そうと伸ばしてやるが。



『いや、いい。もう既に分相応な量を摂取した』



 右手をシュっと差し出されて軽く拒絶されてしまった。



『皆さん、そろそろ図書館に移動しましょう。午後からの作業が待っています』



 カエデが素早くすっと立ち上がるが……。



『あ゛――。腹重てぇ……』


『私、暫くマイちゃんと一緒に歩くの考えようかな……』



 貧弱な二人は生まれたての小鹿も不安になる足取りで立ち上がった。



『ユウ、大丈夫ですの??』


『よ、余裕。イスハの所に比べれば大分マシさ』


『そ――そ――。あそこ程じゃ……うぷっ、無いけど。何んとか、なりそうかな』



 弱々しい声ねぇ。


 三日間血を吸えてない蚊の方がもっと気合入ったおっきい声出るんじゃないの??



『それでは出発します』


『あいよ――。ほら!! ユウ、この芋食べて元気になりなさいよ!!』


『それ以上近付けたら地面に埋めるからな??』



 目付き、こっわ!!


 草原の上で寛ぐ乳牛もびっくりして立ち上がる目付きじゃん!!



『お、おぉ。一人で食べるわ』


『そうしてくれ』



 いつもの日常会話を続けつつ中央屋台群を抜けて北大通を歩む。



 ちょっと曇っているのが残念だけど、まぁまぁ気持ちの良い気候に手元には素晴らしい味。



 はぁ――。人間の食文化って最高っ。


 出来る事ならこのままなぁんにも考えないで散策していたいわね。



 しかし、喜びを享受していたのは束の間の時間であった。


 徐々に図書館の姿が大きくなると、それと比例するように陰性な気持ちが心を侵食していく。


 また本を読むのか。


 いや、別に嫌いじゃないわよ?? 私だって本は読むし。


 料理紹介の本、美味しい御飯のお店、地方特有の料理が記載された本とかだけどさ。


 問題は量よ、量。


 私は文字を食べて生きているんじゃないの。御飯を食べて生きているのよ。


 読書が好きな人は文字を食べて生きているんじゃないかと錯覚してしまうわね。



 まぁ……。調査終了まで後少しだし……。


 カエデに借りを返す為にも、もう一頑張りしますかね。


 大通り沿いにあるゴミ箱に空の紙袋を入れると、図書館へと舞い戻った。



 そして、想像していた通りの匂いと賑わいが私達を迎える。



『一階は相変わらずねぇ……』



 一階の閲覧場の利用席はほぼ満席。


 今も本という皿の上に乗せられた文字を美味そうに咀嚼して、自分の胃袋へと流し込んでいる。


 そんなに本を近付て読んでいると目が悪くなりますよ――っと。


 大分線が細い女性へ向かって心の中でそう呟くと、二階へと向かい。本の合間を縫い、通路を抜け出て先程と同じ椅子に着席した。



 この椅子さ――……。


 もう少し座り易くしても良いんじゃない??


 長時間座っているとお尻が痛くなっちゃうんだけど……。



『さぁ、皆さん。後少しです。疲れているかと思いますが、頑張って下さいね』


『う――い』



 カエデの声を合図に対してユウが気の抜けた声を上げ。読みかけの本へ手を伸ばす。



 私も読みましょうかね。


 文句を言っても、本は減らないんだし……。


 文字の海を見下ろして視線を絶え間なく文字の中で泳がせ続けた。



「「「……」」」



 そしていつもはよく喋る連中も口を閉ざし。集中して作業を続けると暫しの時が経過。



 誰かの鼻を啜る微かな環境音、紙を捲る音が静寂な空間の中に響くと。


 頑張ろうとする自分の意思とは裏腹に、体が正直な反応を見せてしまった。



『ふぁぁああ――……。あ゛ぁっ』



 体は満腹になると、貴女は早く横になるべきなのよ?? と優しい声色で心に命令を投げかけて来る。


 私の体は素直にその命令に従い、大きく口を開けて古紙の香りが含まれた空気を胸一杯に取り込んだ。



 ね、眠過ぎて瞼がおもてぇ……。



『んだよ。隣ででかい……。ふぁぁぁ』


『あんたもしっかり移ってるわよ』


『喧しい。そんな気持ちの良い欠伸されたら嫌でも移るわ』



 ユウが大きなクリクリの目に浮かぶ涙を拭って話す。



『あれだけ食べれば眠くなって当然だよね――??』


『あんたは眠く無いの??』



 ユウの体越しにルーへ向かって念話を放つ。



『眠いよ?? 今から皆にバレないように寝る方法を考えている所』



 それ、言っちゃ駄目な奴じゃん。



『ルー。今の言葉、本音ですか??』



 本から視線を上げずにカエデが話す。


 おぉ……うっ。


 長く付き合っている所為か。事の詳細を言わずとも彼女の細い肩から、全身から少しばかりの怒気を感じてしまう。



『じょ、冗談です!! も――。カエデちゃんは冗談が通じないんだから――』


『手、止まっていますよ??』


『あぁ。はいはい……』



 お惚け狼も恐ろしいカエデの前じゃ従順な獣か。


 彼女は仲間内で最年少なのに、いつの間にかだらけている雰囲気をぴりっと引き締める役を担っている。


 いつもカリカリしてて肩が凝らないのかしら??


 そんな疑問が沸く程、カエデは生真面目だ。


 偶には息抜きでもすればいいのに……。



『…………どうかしました??』


『うぅん。気にしないで』



 私の視線に気付いたのか、ふと顔を上げるが。



「??」



 何でも無いと言う私に小首を傾げる。


 その姿がまた堪らなく愛おしさを感じさせた。



 女の私ですら超可愛いと思うのだから、男なら今の仕草で落ちたわね。


 特にあのボケナスなんて瞬殺だろうさ……。



『余りの可愛さに俺の鼓動が早まってしまう!!』



 なんて思うに違いない。


 大体、カエデはずるいのよ。


 分厚い辞書も参った!! と己の額をピシャリと叩く程に賢くて。


 花壇に咲き誇る花達も思わず二度見する程に可愛くて、その上魔法を使わせたら天下一。



 それに対し私は。



 日曜日の居間でくつろぐお父さんよりもだらしなく、大量の飼葉を食べ終えてモッチャモッチャと反芻している牛もあんぐりと口を開く程に良く食い。


 悪鬼羅刹も己の武器を捨てて泣き喚きながら逃げ出す程に傍若無人。



 男が嫌がる三点をしっかりと装備している。



 別に気にしていないけどさ!!!!


 私は、私の生きたい様に生きる。


 それが信念だし。


 アイツに好かれようとか、皆に好かれようとして己を変える気は毛頭ないで――っす!!!!


 これこそが、私って存在を確固たるものにする為に必要な要素なの!!



『ふぅ……。これで漸く三冊目終了っと』



 何だか微妙に納得出来ない感情のまま読破済みの所に読み終えた本を重ねる。


 そして、新しく本に手を伸ばそうとすると……。



「……っ」



 ボケナスが数列前の机の前に立っていた。


 しかも…………、あの女と腕を組んで。



 ははぁ――んっ??


 アイツ、死にてぇんだな??


 これ見よがしに仲睦まじい姿を見せつけやがってぇ!!!!



 私達が睨みつけると、ボケスの顔色が一気苛烈に青ざめて行く。


 その様はまるで妻に浮気現場を取り押さえられ、これから始まるひでぇ修羅場を想像した夫の顔みたいだった。





「どしたの??」



 ボケナスの腕を取ったまま女兵士が私達の方に視線を送って来た。


 それはまるで。



『私の男だ。手を出すんじゃない』



 そんな風に言っているようであった。



 おっ?? やんのか??


 私は構わないわよ?? 拳で語りあうのは嫌いじゃ無いし。何なら今から噛みついてやろうか!? あぁんっ!?



『グルルゥゥ……。ウ゛ゥ……。グァァアア!!!!』



 豪邸を守る立派な番犬もシュンっと尻尾を垂らして逃げ腰になってしまう嘯く声を放ってやった。




「いや、別に」


「…………。ふぅん、そっか。ほら、行くわよ??」


「あ、おい。引っ張るなって」




 女兵士が勝ち誇るかのように、アイツの腕を取り奥へと引っ張っていってしまった。


 当然、穏便に済む筈も無く……。



『お――お――。楽しそうだなぁ?? えぇ?? こちとらひぃひぃ言いながら本を読んでるってのによぉ』


『レイドも隅に置けないなぁ!! あたしもそっちに行っていいか??』


『レイド様?? もしやと思いますが……。その女性に手を出したらどうなるか。それが分からぬ人では御座いませんよね??』


『レイド――!! 何か良い匂いしたね!! 美味しい御飯食べて来たの!?』


『主。その者と是非とも手合わせを願いたい。雷狼の牙の鋭さを味合わせてやろう』


『…………。性欲の塊』



 カエデが再びボケナスに念話を繋げると、大魔達の細やかな逆襲が開始された。



『一度に話しかけるな!!』



 ふんっ、焦るがいいさ。


 私達はあんたと違ってちゃんと真面目に作業を続けているのよ。


 いや……。アイツも報告書とかいう紙の束と戦っているのよね。



 まぁ――仕方ないか。


 仕事だし、作業に専念させてやろう。


 腹を満たした私はいつもに比べてちょっとだけ寛大なのだよ。



『なぁ、レイド――。そっちの様子見に行っていいか??』


『駄目に決まってんでしょ。ほら、さっさと読めや』


『あぁ……。おいたわしや、レイド様。私を置いて、その下賤な娘の下へと行かれてしまうのですね?? こんなに慕っておりますのに、どうしてそのような事が出来るのでしょうか』


『ごめんね――。アオイちゃんちょっとアレだからさ――』


『主、聞いているか?? 手合わせを願いたいと言っているのだ』


『…………。淫猥の権化』



 しかしそれでも懲りずに口撃を続ける九祖の子孫達。



『こっちは報告書を書いているんだ。もうちょっと静かにしてくれ!! 後、カエデ!! 変な事言わないの!!』



 流石よ?? あんた達。


 こういう時はぴったりと息が合うもんだから不思議だ。


 性格、容姿は違うなれど似た物同士って奴なのかもねぇ。



『マイちゃん、どこ行くの??』


『本を片付けるのよ。これ、全部読み終わったし』



 目の前に置かれている本を手に取り、席を立つ。



『早いね――』


『文字数が少ない奴が多かったのよ』



 何故か知らぬが幼児向けの本が多かった気がするのは気のせいだろうか??


 もしやと思うが……。カエデがそう仕向けた??


 私としてはそっちの方が助かるけど、もしそうだとしたら何だか釈然としないわね。


 私には子供向けが似合っていますよ――ってか。



「……」



 元の棚へ読み終えた本を戻すと、不意にアイツらの様子が気になって来る。



 今なら一人だし……。


 ぐるりと通路を回って皆の死角、並びにボケナス達の死角を攻めれば行けない事は無いわね。



 ……………………。



 息抜き。


 そう!! これは息抜きよ!!


 決して、アイツを覗くというやましい気持ちがある訳では無く。


 息抜き代わりに図書館内を歩いていたら、偶々偶然。運良く見つけてしまったのだよ!!



 うむっ、体の良い理由はこれでいいわね。


 そうと決まったら早速行動開始ぃ!!


 階段の方角へ音を立てずに向かい、最奥の本の谷間へと向かう。



 おぉ……。


 こっちは無人じゃない。


 人っ子一人いない気配にワクワク感が増長してしまう。



 さて、ここからが問題だ。



 ボケナス達が作業をしている空間へ向かうには、目の前の広い閲覧場の空間を抜けねばならない。


 えっさほいさと作業を続けている奴らは物凄く目が良いし、それに鋭い。


 私が魔力を発動して風の力を使用するものなら瞬き一つの間に見つかってしまう。



 仕方が無い。


 多少、格好悪いけど匍匐前進で抜けるか。


 無人の机の下を這って進んで、死角から死角へ抜ければ……。



 よぉし。気付くなよぉ。


 地面を這う蟻の如く、姿勢を低くして進む。



 …………。


 うっし!! 到着!!



 奴らは……。おっ、気付いていないわね!!


 相も変わらず本に噛り付き、難しい顔をしていた。



 さてさて、後は――。


 本棚と本棚の合間の通路を悠々と通って――。アイツの匂いの元を辿れば――。



「帰りの食費か。確か……これ位だった筈」



 あっと言う間に到着でございますよっと!!!!


 向こうから死角になっている本棚から一冊の本を抜き取り、通路で大人しく読書しているフリを演じて盗聴してやろうかしらね!!


 変な事言ったら覚えてなさいよ??


 鼻の形が変わるまで、そして記憶が空の彼方へ吹き飛んで行く程ぶん殴って噛んでやる……。



「あれ?? こんな安かったっけ??」


「俺が覚えている範囲ではその値段だったぞ」


「ん――。ありがと」



 聞き覚えのある声と慣れ親しんだ声が入り混じり、妙に心がざわつき始める。



 何だろう、このうっとおしい気分は。


 この大陸に来るまで湧かなかった感情だ。


 ザラザラして、ネチャネチャしていて、払拭しようにも心に纏わりしがみ付いて来る。


 好きじゃ無い感情の一つだ。


 そんな感情を抱いたまま聞き耳を立てていると、女がふと口を開く。




「さっきの女の人達が気になっているんでしょ」



 何ですと!? それは私達の事??



「……え??」


「ほら、あの赤い髪の子達。傍から見ても美人ばっかだったもんねぇ――」


「いや、違うって」


「そうやって拒否する所が怪しいなぁ??」



 おぉ!! さっきは喧嘩を売ってごめんね??


 あの女、中々見る目があるじゃない。


 その他は放っておいても構わないわよ。所詮奴らは私の可憐な赤を装飾する花だと思ってくれればいいわ。




「でも、止めといた方がいいわよ」


「何が??」


「あの子達……。滅茶苦茶強いと思う」



 軍人の端くれなだけはある。


 私達をじっと見ていたのは、実力を推し量る為か??



「特にあの赤髪の子。アレは相当な実力者ね。目が尋常じゃなかったもん」



 良く言った!!!! あんたが大将!!


 私こそが、大空を統べ聳える山を従える覇者。龍族の超問題児なのさ!!



 だけど、目が尋常じゃないってのはちょっと傷つくわよ??


 そこは円らな瞳で可愛かった、でしょ??




「もう一人の灰色の子も危険な香りがしたわね。…………で??」



 リューヴ、かな。


 もう一頭の狼はお茶らけて強者足る圧の欠片も纏っていないし。



「で?? とはどういう意味でしょうか??」


「誰が好みだった??」



「ぶっ!!」


 ン゛ッ!?!?



 あっぶねぇ。私もボケナスと同時に思わず吹いてしまう所だった。


 あの女兵士め、何て質問すんのよ!!



「あ、あのなぁ。そんなじっと見ていなかっただろ??」


「ん――ん。見てた。しかも、な――んか意味ありげな視線だったのよねぇ……」



 そりゃ、普段共に行動をする仲間を見たんだ。足を止めるのが自然な流れだし。


 多分、そうでしょう。



「ごめん、白状するよ。実は、トアの言う通りあの子達に視線を奪われていたのは確かだ」


「ほら!! やっぱり!!」



 い゛ぃっ!?!?


 う、嘘よね??



 まさかあいつがそんな目で私達を見つめる訳が無い。


 き、き、きっと何か他に理由があるのよ!!


 そ、そうに決まっている!!


 自分勝手な考えを考察して高鳴る鼓動を鎮めようとするが……。それでも顔を真っ赤に染めた心臓が頭の考えを無視してバックンバックンと拍動を早めてしまう。



「で、誰があんたの好みだった??」


「はぁ?? そんな事も言わなきゃ駄目なのかよ」



 こ、こ、好みか。ちゅ、つまり、アイツが好きって奴の事だ。


 私……。じゃないよね??


 うん、それは何となく分かっちゃう。


 他に綺麗な子は沢山いるし……。


 でも。少し位は期待してもいいのかな?? だって、ずっと一緒に行動してきたんだし……。



「…………分かったよ。言えばいいんだろ、言えば」


「はい、良く出来ました!! で、誰?? 赤い子?? 緑の子?? 藍色の子?? 白の子?? 灰色の子??」



 つ、ついに来たぁぁああ!!


 ボケナスの好きな子の答えが今から放たれる。



「……っ」



 その答えを今か今かと待ち続けていると、口内に湧く唾が大魔王様の分厚い装甲を両断する事を可能にした硬い鉄の剣へと変化。


 喉の筋肉を総動員して大変硬い唾をゴックンと飲み込んでその時を待つ。



 赤い子って言ったら、私の事よね??


 言ってくれたら……うん。



 素直に嬉しいと思う。



 私も女の端くれ。異性に好かれて悪い気はしない。だけどさ、普段の生活態度を鑑みればどうだろう??


 何度も痛みを与えてきたし、それに御飯だって沢山食べちゃってる。


 女として見られているのか甚だ疑問が残るの。


 アイツが好意を抱いているのは私なのか、それとも私以外の者なのか。


 今此処ではっきりとその答えが聞けるのだ。



 知らぬ内に私は自分の拳を痛い程握り込み、私が渇望する彼の言葉を待ち受けていた。

























「……………………。藍色の子」



 ――――――。


 ふぅん、そっか。そうだよね。


 やっぱり、ボケナスはカエデを取るのか。



 拳の力をふっと抜くと、強張っていた緊張感が霧散。代わりに胸の中に途轍もない痛みが駆け巡り始めた。



 得体の知れない化け物が私の心臓を酷い力で握り込んでいる。そんな錯覚を覚えさせる程の痛みだ。


 痛い……。痛過ぎる。


 今、この時初めて感情なんていらないとさえ思ってしまう程だ。



 あ――あ。そっかぁ。


 カエデには逆立ちしても勝てそうにないし。


 うん。


 お似合いじゃない?? 優等生同士でさ。


 でも、心の中でそれを認めたくないもう一人の自分がいる事に気付いてしまった。



 いいのよ。これでいいの!!!!


 アイツが決めた事なんだから。



 私はアイツの隣に立てないのよ!!!!



 もう一人の卑しい自分を掻き消そうとして心の中で叫ぶも、痛みは消えてくれない。


 それが無性に腹立たしい。


 何よ……、何なのよ……。消えなさいよ。


 もう答えは出たじゃない。


 聞いたでしょ?? アイツはカエデの事が好きなのよ。


 私じゃないの!! 放っておいてよ!!



『藍色の子』



 たかが数文字の言葉が私の胸を苦しめ、心を傷付ける。


 何でこんなに苦しまなきゃいけないのよ。


 あんたの所為よ。


 あんたがそこにいるから私が苦しまなきゃいけないのよ!!


 もう一人の自分に吐き捨てるが、それでも消えない。


 気が付けば、私の体はお伽噺の本棚の前に立っていた。



 あれ??


 どうやって帰って来たんだろ。


 まぁ、いいや。どうにでもなれ。考えるのも面倒だわ。


 適当に数冊を取り、己の席へと戻った。




『よぅ。お帰り』


「……」



 ユウの明るい言葉が今は辛い。


 そっとしておいて。



『うん?? どした??』

『別に』


『……そっか。良く分からんが、もう直ぐ調査はお終いだ。気が乗らないなら休んでいてもいいんだぞ』



 お願い、話し掛けないで。



『分かった』



『全く。どこで油を売っていたかと思いきや。帰って来て早々うっとおしい態度を取るのですか?? 見ていて気持ちの良い物じゃあありませんわぁ』


『…………。うん、ごめん。ちゃんとするから』



 条件反射で蜘蛛の言葉に答えた。


 己が何を言ったのかさえ、頭は理解してくれなかった。



『マ、マイちゃん?? 変な物でも食べたの??』


『あ、あぁ……。苦しいなら休んでいてもいいんだぞ??』



 狼狽する狼達の声も聞こえない。



『マイ。どうかしたのですか??』

「…………」



 カエデ。


 アイツが好きなのは目の前にいるこの子だ。


 本から視線を上げて意中の人物を見てやる。



『大丈夫ですか??』

『大丈夫って言っているでしょ。放っておいてよ……』



 違う。今のは私の言葉じゃないの。


 必死に抑え付けても勝手に出て来ちゃうのよ。


 カエデを視界入れるとどうしようもない憤りが湧き上がり、彼女に対して辛辣な言葉を放ってしまった。



『そう、ですか。分かりました』



 ほら。傷付けちゃったじゃない。


 何をしているのよ、私は……。



 それからいつまで経っても消えない憤りに、私は一人で勝手に不機嫌になり。


 ぶつけようの無い怒りが心を傷付けていた。


 もう、好きにしなさいよ。


 私も勝手にするから。


 目の前の文字を読むが理解には及ばす、私は只単に紙を捲る生き物としてそこに存在し続けていた。






























 ◇




 いつの間にか古紙の香りが消えたかと思えば……。私は硬い石畳の上を漠然的に歩いていた。


 空は酷く重い鉛色の雲が覆い尽くし、最悪な気分を更に加速させてくれている。



『マイちゃん、夜御飯はどうする??』


『…………。要らない』



 今は何も喉に通らない。


 一人で静かに眠ってしまいたい。


 何もかも忘れて。



『ユウ。マイの奴どうしたんだ??』


『いや。あたしにも皆目見当もつかないよ』


『そうか……』


『リューヴは何か気付いた事、ある??』


『いいや。本を取りに行ったのまでは覚えている。確かにその後ろ姿を見たからな』


『あたしもそこは覚えているよ。問題はそこから先だな』


『何をしたらあぁも不機嫌になるのだ??』




 勝手に歩く足。勝手に呼吸する口。勝手に石畳を捉える瞳。


 まるで赤の他人が私の体を操っている。


 そんな感覚に陥っていた。



 宿へ戻り、ベッドに横になっても気分は晴れる事は無く。悪戯に経過して行く時間を只茫然と天井を見つめながら過ごしていた。


 周りで鳴り響く談笑が煩わしい。


 眉を顰め、天井の染みを数えてると。今一番聞きたくない声が私の耳に届いた。




「た、ただいま――」



 ボケナスが頼りない声と共に部屋に入って来る。


 いつもなら迎えの言葉を投げかけてやるが、今は一言も話したくない気分だ。


 どうせ、カエデと楽しい話でもしたいんでしょ??



「あ、カエデ。明日時間ある??」



 ほら。やっぱりそうじゃない。


 私には一言も声を掛けずに、愛しのカエデ様と仲良くお話ですか。


 勝手にしなさいよ。


 いっその事、くっついてくれた方がまだマシよ。





「…………あれ?? マイは??」



 はっ。漸く気付いたか。


 どうせあんたにとっちゃ私は視界にさえ入らない小さな存在よ。



「おい、どうした?? 体調でも悪いのか??」



 私を心配するより、目の前の可愛い子を心配してあげたら??


 気を配る先を間違えているわよ。



「聞こえてる?? 大丈夫か??」



 あ――、もう…………っ!!!!


 鬱陶しい!!



「……。五月蠅い」



 心に抱く負の感情そのものを解き放ってしまった。


 しまった……。今のは流石に言い過ぎだわ……。



「は?? 俺、お前に何か悪い事言ったか??」



 ほらね。


 予想通りにご立腹の声が跳ね返って来たし。



「……。別に」



 一人にしてよ。お願いだから。



「だったら五月蠅いって何だよ」



 不機嫌な足音を立てて此方に向かって来る。



「何でもいいじゃない。放っておいてよ」



 私を見下ろす様はやっぱり…………。いつもの優しい表情は消え失せ、怒りの表情が込められていた。



 止めて。そんな目で私を見ないで。



 今の私には到底コイツの目を直視する勇気は無かった。


 くるりと寝返りを打ち、背を向けてしまう。




「人が心配して声掛けたのに。その言い草は無いだろ」



 分かってるわよ。


 でも、抑えられないの。自分の感情が。



「放っておいてって、聞こえなかったの??」



 違う。


 本当は声を掛けてくれて嬉しい筈なのに……。私の状態を心配してくれたのに……。


 何で、頭で考えた言葉と正反対の言葉が出て来ちゃうの??



「聞いてたよ。でもな、どうしてそんな不機嫌なのか分からないと気持ちが悪いだろ」


「私が不機嫌なのがそんなにいけない事なの??」



 もう一人の自分に懇願するが、辛辣な言葉を止める事は叶わなかった。



「別にそれは構わんさ。感情を持つ生き物なら誰しもが持つ感情だからな。でもな、ここはお前だけの部屋じゃないんだ。不機嫌な理由を話してくれないと、どうしていいか俺達が対処に困るだろ」



「…………」



 ボケナスが言っている事は正しい。


 私も彼の考えに賛成だ。


 けれど、感情の抑制が上手く出来ないの。


 私だっていつも通りに振る舞いたいよ??


 でも、駄目。


 絶対出来ない……。


 あの子が、カエデが。近くにいるんだもん……。



「あぁそうかよ。勝手にすればいい。けどな、人には迷惑掛けるなよ」



 そのまま不機嫌な音が遠ざかって行く。


 これで、アイツも好きな様にカエデと過ごす事が出来るでしょ。


 私は二人の仲を毛頭邪魔するつもりは無いわ。


 明日も二人で仲良く図書館で話し合うんでしょ??


 その時、夏の休暇を利用して訪れた無人島の洞窟内で二人が仲睦まじく唇を重ね合わせそうになっていた光景が頭に浮かんだ。



 お願い……、消えて……。


 何でこんな光景を私に見せるの??


 二人が仲良くするのは自由な権利じゃない。


 私がそれを阻む義務は無いの。


 何で、どうしてこんな苦しまなきゃいけないの??


 シーツに潜り、現実から逃れる為に瞼を閉じても二人の光景は消えず。私の心を苦しめ続ける。



 もういい。疲れた。どうとでもなれ……。



 胃の中から湧き上がる気持ち悪い感情を必死に抑え込み、早くこの痛みから解放されるよう睡魔が訪れる事を願うが。


 私の懇願虚しく、眠りに着いたのは闇が深くなり梟も鳴き疲れた頃であった。




お疲れ様でした。


それでは皆様、お休みなさいませ。

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