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第八話 強面狼さんと朝のお散歩

お疲れ様です。


本日の投稿になります。


それでは御覧下さい。




 楽しい食事会を終えて宿に着くなり心地良い睡眠を享受しようと誰よりも早くベッドへ飛び込んだ。



『えへへ。お腹を枕代わりにして――』


『ちょっと邪魔ですわよ!?』



 勿論、快眠を妨げようとする狼と蜘蛛の騒ぎがありましたが。普段よりも早く襲い掛かる眠気に体を委ねて苦労しながらも夢の世界へと旅立てて御の字としましょう。



 時間的には、いつも就寝する位の時間。



 目覚めの時まで気持ちの良い睡眠を享受していた訳だが、快眠していた筈の体に正体不明の気怠さを覚えていた。


 満腹の状態で眠ると正体不明の気怠さが生じると誰かが言っていた気がする。


 その症状が俺の身に起きているのだろうか??




「んふふ……。そっちじゃないよぉ。散歩はこっちぃ」



 うむっ、気怠さの正体は物理的な物でしたね。


 一頭のお惚け狼が俺の体に覆い被さり、粘度の高い涎を口の端っこから垂らし、尻尾を揺らして楽しそうな寝言を歌っている。


 後ろ足で立てば俺よりも大きな体長だ。


 そりゃ体に気怠さと重さを感じるでしょうね。



 普段なら大きな頭をピシャリと叩いて覚醒を促してやるのだが。



「…………。まぁいいか」



 楽し気な夢を見て口元をニィっと柔らかく曲げている狼さんから窓へ視線を移すと、カーテン越しではあるが間も無く訪れるであろう朝の気配を朧に掴み取った。


 皆が目覚めるにはまだ少し早い時間もあり、胸元の灰色の頭に手を添えて柔らかい毛並みの感触を楽しんでいた。



「う――。そこぉ……」


「はは。夢の中でも撫でられているのか」



 夢と現実が重なったのだろう。肉食の狼とは思えない甘ったるい声を放った。


 さてと、ちょっと早いけど起きようかな。


 任務開始初日にだらけた姿を見せるのは宜しくありませんのでね。



「よいしょ」



 先ずは狼の頭を掴んで、此方の体の横へと優しく置いて。



「意外と……。重たいんだよね」



 俺の両足の上に被さりしぶとく残る本体を退かし。



「うふふ……。レイド様ぁ……」



 右肩に蜘蛛の糸で己が体をガッチリと固定して眠る蜘蛛さんを引っぺがして狼の頭に乗せてあげた。



「ふぁ……。良く寝たなぁ……」



 物音を立てぬ様に上体を起こして筋肉を解す。


 腕の筋肉を作動させ、腰を捻り、両足を曲げては伸ばす。動作させる箇所を徐々に下げていくが特に不安を覚える箇所は見られなかった。



 うん、今日も快調だ。



 軽く体を解していると。



「…………。主??」



 蚊の羽音よりも小さな声が耳に届く。



「ありゃ。起こしちゃった??」



 右を向くと、顎が外れるんじゃないのか?? そんな杞憂さえ抱かせる程大きく口を開けている狼が床の上にお座りしていた。


 まだ眠たいのか。前足を器用に動かしてクシクシと目を擦っている。



「いや。昨晩は早めに就寝したから自然と目が覚めた。主もか??」


「まぁ、そんな所かな」


「ん――……。いたぁい……」

「レ、レイド様。ケダモノの香りがしますがまさか……」



 ベッドの上で寝言を放つお惚け狼と黒き甲殻を身に纏う蜘蛛の御姫様を見下ろして話す。



「ルーの奴……。すまんな、迷惑を掛けて」


「気にしないよ。寧ろ、毛の手触りがいいからお互い様って事で」


「ふふ。そうか」



 リューヴにしては柔らかい口調で話す。


 これは……。頭を撫でろって事かな??


 微妙にフッサフサと尻尾が左右に揺れ動いているし。




「折角早く起きた事だし。朝の散歩でもする??」



 彼女の頭を優しく撫でながら提案してみる。


 ルーの頭を撫で慣れている所為からか、彼女の毛質よりも若干硬い気がするな。



「あ、あぁ。そうするか……」



 心なしか、彼女の声色も心地良さそうだ。


 よし、耳の裏に行ってみよう。



「んっ……」



 ここは前足が届き難いからなぁ。気持ち良いが声が漏れてしまうのも頷けますよ。



「そ、そろそろ行こう」


「了解」



 恥ずかしかったのか。俺から一歩下がると人の姿に変わる。


 淡い光の中から普段通りの彼女の姿が現れるが、羞恥心が勝ったのか。少しばかり頬が赤らんでいた。



「こんな早朝でも屋台やっているのかな??」



 皆を起こさぬ様、静かにベッドから立ち上がり動き易い服装へ着替えて話す。


 持ち物は……。財布だけで良いか。



「まだ早い時間帯だ。それは分からんぞ」


「そっかぁ。何か売っているといいけど」


「どうして??」


「ほら、朝食代わりにいいかと思ってさ」


「あぁ。そういう事か」



 着替えを終えると部屋の扉を開き、朝の匂いが立ち込める廊下へ彼女と共に出た。


 適度な速さで歩いて宿屋の待合室に到着。


 少々不安になる汚さの壁に掛けられている時計へ視線を移すと、時計の針は六時前を指していた。



 此処から屋台群まで速足で歩いて凡そ三十分。見て帰って来れば丁度良い時間帯になりそうだな。



「向こうの到着は七時前、か。流石に開店前だろうね」


『この街の人間は起きる時間が遅いからな』


「リューヴ達の里ではもっと早く起きるの??」



 普通の会話から念話に切り替えた彼女へ問う。



『太陽が沈めば休み、日の出と共に行動を開始する。自然と共に行動して自然の恵みに感謝を怠らない。私達は自然に生かされ、自然が死ねば我々も共にする。一蓮托生とでも言えばいいのかな。そんな暮らしだ』



「ほぅ。大自然に囲まれた土地かぁ。今からちょっとワクワクするよ」



 宿の外に出ると、朝に相応しい澄んだ空気が体を包む。


 腕を左右へ伸ばして肺に空気を取り込むと一気に体が覚醒した。


 日中は少し埃っぽいけど人が行動していない時間帯の空気は旨いな。



『此処とは比べ物にならない程自然が溢れているぞ?? 豊かな土、埃を微塵も感じさせない澄んだ空気、静寂な空間に鳥の歌声が響き心を落ち着かせてくれる』



 隣で歩きながら話すリューヴの顔は楽しそうだ。


 きっと故郷の姿を思い出しているのだろう。



「普段は何を食べていたの??」



 西大通りから屋台群に向かおう。


 先ずは北上開始ですね。



『私達の里では狩猟を糧としている。里の者がそれぞれ狩猟に赴き、獲れた獲物を皆で分け与える』


「大変そうだね」


『農耕とは違い確実性に欠けるからな。だが、獲物には事欠かないぞ?? 野兎、鼠、鹿、猪、熊。人の姿に変わり川へと赴き釣りをすれば豊富な川魚が釣れる』



「熊も狩れるのか。まぁ、リューヴの力加味すれば容易いだろうさ」



 裏路地から西大通りへ歩み出たがまだ早い時間もあってか人の姿は疎らで。歩いている人は皆眠そうな顔をしている。


 早朝だからなぁ、眠いのも頷けますよ。



『ガイノス大陸でも熊を狩ったのだが』


「あぁ、聞いたよ。べらぼうに強い熊だろ?? マイが倒したって聞いたぞ。あいつも腕を上げているからな」


『ふんっ。私が本気を出せばあの程度の熊、造作も無い』



 あ、ちょっと拗ねちゃった。


 フンっと鼻息を漏らすとソッポを向いてしまう。



『その熊の肉より、私の里で獲れる熊の肉の方が美味かった。もし、獲れるようだったら食べてみるか??』


「是非。向こうの大陸で食べ損ねちゃったからなぁ……」



 ミルフレアさんからの攻撃を受けてぶっ倒れていたし、しょうがないとは思うけど。


 貴重な体験をみすみす逃したのだ。心残りが無いと言えば嘘になる。



『ふふ。少し癖はあるが、きっと気に入るだろう』


「リューヴのお母さんが料理をするの??」


『そうだ。父上は一切料理をしない』


「あらまっ。前時代的なのねぇ」



『主と出会うまでは、男は料理をしない生き物だと思っていたが……。私の考えが古いと気付かされたよ』



「このご時世。男でも料理をしないと結婚出来ないって聞いた事あるしなぁ。ありゃ、中央広場も人が少ないな」



 いつもは人の波が蠢いている場所も今は閑散としている。


 しかし、屋台の店主達はもう間も無く訪れるであろうお客さんを相手にする為。額に汗を浮かべて開店準備に余念がない様子だ。



「このまま中央に渡ってぐるっと一周回ろうか」


『了承した。…………。そ、その』


「ん――?? 何??」



 お――。


 あの包丁、よく切れそうだな。


 見れば店主が下拵えなのか、熟練の包丁捌きで野菜や肉を切り分けている所だった。




『主は、結婚相手はどんな姿を想像しているのだ??』



 また突拍子もない質問ですね。



「そうだなぁ。特にコレって姿は想像していないけど。一緒に色んな経験を積んでさ、苦労も喜びも共有出来たらいいなぁって思うよ」



 長きに亘る人生の酸いも甘いも共に知る。


 これが夫婦生活を持続させるコツじゃないのかな。まぁ未だ女性と付き合った事の無い俺がいきなり付き合いの過程をすっ飛ばして結婚生活を想像するのは困難なので、大方の予想しか出来ませんけどね。



『因みに……。魔物が相手でも構わないのか??』


「え?? うん。特に気にしていないけど?? 逆に聞くけどさ、リューヴはどんな人がいいの??」


『私か?? う……む……』



 腕を組み、眉に皺を寄せて真剣に考えこんでいる。


 そこまで想像力を膨らませる事かな??



『先ずは……。強さだな』


「強さ??」


『最低でも父に認められる強さを持って貰いたい』



「いやいやいや。お父さんって大魔でしょ?? そんな人に認めて貰うって、相当な実力者じゃないと不可能じゃないの??」


『父上は実力よりその者の心を見る。真に心が強い者か、それを見定めるであろう』



 心強き者でなければ大切な娘はやらん!! と恐ろしい剣幕で叫び。

 

 それならまだしも、貴様の実力を見せてみろ!! と。戦闘態勢を整えたら大抵の男は逃げ出してしまうでしょうね。



『共に切磋琢磨をして、互いに鎬を削る。そんな夫婦間もいいな』



「へぇ。具体的だね。子供にはどういう教育をするの??」



『出来れば強く育って欲しい。私の様に戦士になれとは言わん。只、強者は弱者を導く者。その事を胸に抱き真っ直ぐな力を持って貰いたいな』


「おぉ。俺が言った事覚えていてくれたんだ」



 これは素直に嬉しい。



『勿論だ。私に強さの何たるかの欠片を教えてくれた主には感謝しているのだぞ??』


「どういたしまして。でもさ、一つ気になる事があるんだけど」



 この際だから聞いてしまおうか。


 他に誰も居ないし。



『何だ??』


「その……。捉え方によっては大変失礼にも聞こえるんだけど。大丈夫??」


『あぁ、構わん』


「で、では……」



 一つ大きく息を深く吸って、呼吸を整えてから言葉を漏らした。



「今はさ、ルーと体を別れて行動しているよね??」


『そうだ』



「じゃあさ。その二つに別れた体で子供って出来るのかな?? それとも元の体に戻らないと出来ないの??」



『…………』



 俺の言葉を聞くなり、太陽も心配になる程顔が赤く染まる。


 しまった。


 やはりこの質問はすべきでは無かった。



『いや……。そういう行為は及んだ事が無いから、何とも言えないが……。どうなるのかもわからん』


「も、申し訳ない」



 リューヴに対して深々と頭を下げて謝意を表すと。



『里に帰ったら母に聞いてみる』


「いや、その。申し訳ありません」



 互いに視線を外して何とも言えない空気に変化してしまった。


 こんな早朝から何て事聞いてんだ、俺。



「もうそろそろ一周す、するね」



 空気を変えようとして俺達を挟んで並ぶ屋台へと視線を送って話す。



『あ、あぁ。宿へ引き返すか』



 西大通りへ繋がる空間を抜けて行こうとすると。



「そこの御二人さん!! 気持ちの良い朝にパンは如何かね!!」



 既に店開きしている屋台の店主から声を掛けられた。



「パンですか??」



 無視をしても申し訳無いし、それに朝飯代わりに丁度いいかもしれない。


 そう考えて彼のお店の前へとお邪魔させて頂いた。



「そうさ!! あま――いアンパンに、王道の小麦パン。それに美味しいクルミをふんだんに使っているクルミパンもあるよ!!」

「買います」



 クルミパンと聞いて、二つ返事で答えてしまった。


 俺はどこぞの空腹龍か。



「毎度あり!! 何を買うんだい??」



 屋台の中に並べられているのはどれも豊潤な小麦の香りを放つ多様多種のパン。種類問わずどのパンも美味そうだ。


 ここで皆の分を買って行かなければ大目玉を食らうだろう。



「えっと……。アンパン五つ、小麦パンを七つ、クルミパンを十個で」


「沢山買うねぇ!! 子供の分かい??」


「子供??」


「ほら、お隣にいるのは奥さんだろ??」



 その言葉を聞いた途端。



「……っ」



 リューヴの顔が瞬間的に沸騰してしまった。


 猛烈に上昇していく熱の勢いに頭の天辺からプシューっと蒸気が立ち昇りそうだ。


 だ、大丈夫かな??



「いやぁ、羨ましいなぁ。そんな別嬪さんを御嫁さんにしちゃって!!」


「え、えぇ。まぁ……」



 拒否して時間を割かれるのも面倒だ。


 ここは有耶無耶に返しておこう。



「御代は……そうだねぇ。美人さん割引で三千ゴールドでいいよ!!」


「どうも」



 素早く現金を渡して沢山のパンが詰められた紙袋を三つ受け取る。



「毎度あり!! また来てねぇ!!」


「ちょっと安くして貰ったね」


『あ、あぁ』



 紙袋を両手に抱えて再び歩き出す。



「リューヴの事美人だってさ。やっぱ女性と一緒にいると色々安くして貰えるから助かるよ」


『そ、そういう話は苦手だ』



 だろうなぁ。


 まだ赤みが引いていないし。



「さて、宿へ帰る前に一つ食べちゃおうか」



 紙袋の中からクルミパンを取り出すと小麦の甘く食欲を誘う香りが鼻腔へそっと届く。



「ほら、リューヴも一つ」


『頂こう』



 クルミパンを取り出して彼女へ渡す。



「では、頂きます!! ……うん。美味しい!!」



 仄かな甘味が舌を包み、クルミのコリコリとした触感が心地良い。



「どう?? 口に合う??」


『ん……。うん、美味いぞ』



 良かった。


 目尻を少し下げて、美味しそうに咀嚼を続けている。



 さてと、これで朝飯は確保出来た訳だ。


 部屋に戻って細やかな朝食会を開くとしますか。



 本日は任務再開の初日。


 美味いパンにありつけたお陰でその初日を最高な始まりで迎えられそうですね。


 人通りが徐々に活気づいてきた大通りをのんびりした歩調で進み、クルミの触感を口内で楽しみつつ彼女と共に朝の散歩を謳歌した。








 














 ◇




 頭の中にまで馨しい香りを届けてしまうパンの山が……。私の前に聳え立っている。


 カリっと焼かれているもの、ぷっくり丸々と太ったもの、そして捻じれに捻じれまくって何処から食べようか迷ってしまうものでまで多種多様なパンちゃん達。


 何故それが聳え立っているのかは分からんが、生意気にも私に食えるものなら食ってみろと言わんばかりの態度を醸し出していた。



 いいだろう。相手になってやろうじゃないの。


 私の前に立ち塞がった事を後悔しやがれ!!


 先ずは小手調べよ!!


 山削りの第一歩として麓のチーズパンへ勢い良く手を伸ばして勢いそのまま、御口ちゃんへと運んでやった。



「ふぁぁ……」



 くそうぅ……。美味さで腰が抜けてしまいそうだ。


 量は幾らでも食べられる、しかし……。このパンの山は美味さで私を屈服させようとしているのか!?



 こ、小癪なぁっ!!


 チーズパンが置かれていた隣、こんがりと美しい焼き目をしているパンを手に取り頬張ってやった。



「あ、はらわあぁぁんっ……」



 余りの美味さに自分でも気持ち悪いと思えてしまう声を上げて、膝から地面へ崩れ落ちてしまった。



 ふ、不意打ちにも程があるわよ!!


 普通のパンだと思ったら中に小豆の甘味というとっておきを隠していやがった!!


 甘さと驚きが私の心と体を完膚なきまでに叩きのめしてしまった。




 く、くぅっ!! 何て、強敵。


 今まで会敵したどの敵より手強いかもしれないわね……。



 私一人で勝てるの、か??



 頬から伝い落ちる汗を拭い、渾身の力を籠めて立ち上がるが。


 それでもパンの山は不動の姿勢を貫き、余裕の態度で私を見下ろしていた。



 世界最強の私を甘く見ない事ね!! 絶対にぃ……。負けないんだから!!


 聳え立つ山へと向かい、相討ち覚悟で駆け出して行った。





「――――。おい、起きろ」



 一番手前のパンに齧り付こうとした刹那、無粋な声が頭の中に響く。



「ふぇ??」



 その声を受けてゆるりと目を開けると……。


 ボケナスが呆れた顔で私を見下ろしていた。



「はれ?? 聳え立つパンの山はどこ??」



 体を起こして左右を見渡すが当然見つかる筈も無く、眠る前と変わらない光景が広がっている。


 無情な光景が私に、アレは刹那の幸せな夢だと知らせてくれていた。



 あ――あっ、夢かぁ。


 そりゃそうよねぇ。あぁんな美味しいパンの山なんて世界中どこ探したって見つかる訳ないもん……。




「寝惚けてんの??」


「うっさいなぁ……」



 両手で目をグシグシと擦り微睡む体を覚醒させる。


 食べたかったな、あのパン。



「パンの山とまではいかないけど。普通のパンならあるぞ??」



 ボケナスが差し出したのは夢にまで見たアンパンだ。


 あの甘さが現実で感じられる!! そう思うと、体が勝手に動いてしまった。



 背に生える翼をピンっと左右に広げ、人生で五指に入る速さでボケナスの手元へと飛翔。



「アンパンッ!! はむっ!!」


「いっでええええええ!!」



 鋭い龍の牙で柔らかい生地を突き破ると小豆の甘味が舌の上にふわぁんと広がる。


 はわわぁ……。これよ、これ。


 この甘さを味わいたかったのよ。夢でも幻でも無い。本物の甘味……。


 硬くて細い何かが甘さの邪魔するが、この際気にしないわ。


 ゴリゴリと噛んでやろう。どうせこれもパンの一部でしょうから。




「は、放せぇ!! 千切れる!!!!」


「むふぉ??」



 あぁ、この細いのはボケナスの指か。


 目に大粒の涙を浮かべて私を振り払おうとしているが、お生憎様。


 世界最強の咬筋力は伊達じゃねぇんだよ。



「貰ってふぃくわねぇ――」



 カパっと口を外して誰にも取られまいとアンパンちゃんを抱きしめて己のベッドへと戻る。


 ふふっ、離さないわよ?? 私のアンパンちゃん。



「の、残りの分。置いておくぞ……」


「ごふろ――」






 ――――。




 燃え盛る炎で熱した針で刺された様な激痛が迸る指を抑えながら自分のベッドへと戻り、我が右指の状態を確認した。



 うわぁ……。


 あ、穴が開いてる……。



 龍の牙は人の皮膚を、そして肉を切り裂く威力を誇る。あのまま噛みつかれていたら恐らく骨まで達してパンの一部だと勘違いしたままであれば噛み千切られて今頃俺の指は奴の胃袋の中か。



 全く……。


 何でパンを差し出しただけなのにこんな酷い目に遭わなければならないのだ。


 普段通りの日常生活の中に潜む危険性を再認識した瞬間であった。




「レイド様。御無事ですか??」



 アオイが大変心配そうな声を掛けてくれる。


 その心遣いが今は嬉しい。



「ん――。なんふぉか」



 右手の人差し指を咥えながら言ってやった。


 まだ血が止まらないよ。



「あっ!!!!」


「どふぃた??」



 急に驚いた声を上げてどうしたの??


 俺の顔に何かついている??



「その……。怪我の具合を見せて下さい。治療させて頂きますわ」


「ん。どうぞ」



 口から指を外し、ベッドに腰かけて来たアオイへと見せてやる。



「穴が開いていますわね。あぁ、可哀そうなレイド様……」



 傷付いた指を手に取り治療を開始するかと思いきや。



「私が癒して差し上げますわ……。んっ」



 何を考えたのか、自分の口元へ運んでしまうではありませんか!!


 生温かい感触が指一杯に広がり、人の温もりを持ち淫靡な唾液を纏う軟体生物が傷口を這って行く。



「ちょっ……!!」



 慌てて手を引っ込めてやる。


 全く想像出来なかった事象に心臓がキャアキャアと騒いで五月蠅い。



「うふふ、消毒ですわ。卑しい人の口は汚れていますから」


「おい。誰が汚れているって??」



 ベッド越しに赤き龍の苦言が飛んで来るものの。



「さぁ?? さ、レイド様。続きを……」



 蜘蛛の御姫様は早朝に不相応な表情を浮かべてにじり寄って来た。



 胸元を大きく開いた白き長襦袢からは男の性を悪戯に刺激してしまう双丘の末端が覗き、中途半端に開いた唇から正常な思考を阻害する吐息が漏れ始め。それを吸い込むと右手が彼女の体に触れようと伸びてしまう。



「も、もう大丈夫」



 右手が制御不能に陥る前に全理性を動員して宥めると、彼女と正常な距離感を保ちながら後退を開始した。


 アオイはちょっと大胆と言うか、羞恥心が無いと言うか……。


 人前等気にせずに行為に及ぶから困ったものですよ。



 勿論、人前でなくても了承出来る行為ではありませんのであしからず。



「レイド――。怪我したの??」


「どこぞの誰かに噛みつかれてね」



 ベッドに飛び乗って来た陽気な狼さんへそう話す。


 丁度良いや。


 おかしな雰囲気を払拭する為に会話を続けましょう。



「ルー。パン食べた??」


「さっき食べた!! 美味しかったよ!!」


「喜んでくれて光栄だ。早起きして買って来た甲斐があるよ」


「リューから聞いたよ。朝の散歩に出掛けたんだってねぇ??」


「何だか朝早く目覚めちゃってさ。そのついでにね」


「起こしてくれれば良かったのに……」



 不貞腐れる様に、シーツの上に伏せてしまう。



「あはは、御免ね?? 今度は誘うからさ」



 フワフワの毛に覆われる頭へ手を乗せて言ってやった。



「う――。許す」


「レイド様!! 獣の頭よりも私を撫でて下さいまし!!」


「あいたっ!!」



 狼さんの顔を手で押し退け、無理矢理己の頭を太腿と手の間の狭い空間へ捻じ込んで来た。



「はいはい」


「あぁ……。至福の一時ですわ」


「ちょっと!! アオイちゃんどいてよ!!」


「そちらがお退きなさい!! 私は今、レイド様の寵愛を授かっているのですよ!!」



 そこまで大袈裟じゃないって。



「ヴ――ッ!! 噛むよ!!」

「糸で絡めとりますわよ!!」



 さてと、黒き甲殻を身に纏う蜘蛛と雷狼の娘さんの取っ組み合いが始まっちゃったし。


 巻き添えを食らう前に避難しましょうかね。



「そのデップリしたお腹噛んであげるよ!!」



 二本の節足をクワっと掲げて警戒する蜘蛛に向かって噛みつこうと突撃するが。



「遅過ぎて欠伸が出ますわ」



 八つの足を器用に動かして回避した蜘蛛さんを尻目に避難を開始した。



 蜘蛛ってどんな風に欠伸をするんだろう??


 あの鋭い牙をワチャワチャ動かしてするのかな。



 何となく想像出来るものの、決して正確な姿が見えてこない蜘蛛の欠伸姿を思い描きつつ隣のカエデのベッドに腰かけてやった。



「パン食べ終えた??」


「うん」



 まだ眠たいのか、ベッドに腰掛けて随分とゆっくりとした瞬きをしている。


 微睡む姿も可愛いなと思いながらもやはり気になるのは端整な顔では無くて。



「てか、寝癖直さないの??」



 その御顔の上に乗っかている有り得ない寝癖ですよね。


 間も無く収穫の時期を迎える落ちたてホヤホヤの栗の棘みたいに四方八方へ尖っちゃっているし。



「出発する前までには直す」


「そっか。今日から出発だけど、宜しく頼むね」



 何を、とまでは言わない。


 この宜しくには多岐に渡る意味を含ませているから。



「任された。では、先ず。目の前の騒音を鎮めてくるね??」


「よ、宜しくお願いします」



 彼女がふわぁっと小さな欠伸を放つと。小さな体からは想像出来ない恐ろしい魔力の渦を滲ませて静かに立ち上がる。



「逃げないの!!」

「そちらが遅いのですわ」


「御二人共。ちょっと宜しいですか??」


 今から始まるであろう分隊長殿の独壇場を想像すると大変硬い生唾が口内に現れてしまう。



 二人共。


 早く静かにする事をお薦めするよ。


 分隊長殿は朝が弱く、そして今は喧噪を受けて少しばかり不機嫌だ。


 これが示す意味は理解出来ますよね??



「あはは!! やっと後ろ足捕まえた――!!」

「は、放しなさい!! ケダモノめ!!」



 素敵な朝の散歩から始まり、好物を頂いて活力を得た矢先にこの喧噪だもの。


 今日の先が思いやられるよ。



 俺のベッドの上で暴れ回る一匹の蜘蛛と一頭の狼さんへ向かってそっと歩み寄るカエデの背後を見つめ。どうか説教が直ぐに終わりますようにと、人知れず二人へ祈りを捧げ。



「すぅ……。すぅ……」



 この喧しさの中でも安眠たる姿を保持して安らかに眠り続けるミノタウロスの娘さんの姿を捉えながら軍服に着替え始めたのだった。




最後まで御覧頂き有難う御座いました。


本日の昼食は予定通りチキンカツカレーを頂いたのですが、予想以上に量を食べてしまった所為か。若干胸焼けが残る中での執筆活動になりました。


皆さんも食べ過ぎには気を付けて下さいね。


それではお休みなさいませ。

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